第49話 『襲名披露興行(四)、八代目團十郎』

 八代目團十郎は、名古屋へ行くことをひた隠しにしていたところをみると、名古屋の若宮の芝居で父の七代目と共演することは予め知っていたと思われる。
 さすがに名古屋では團十郎の名を使うことを憚って、市川白猿と名乗っている。
 八代目團十郎が自殺したのは嘉永七年(1854)八月五日で、その翌日に中の芝居の手代、山形屋忠七という者が発見して大騒ぎになった(以下、箇条書きにして挙げる)。
 その日に奉行所へ届け出て検死を受けると共に、庄八と萬吉が江戸表へ注進のため出立した。
 七日、明け方に遺骸を千日焼場にて火葬。
 同日、寅吉が故人の弟、重兵衛の書状を持って江戸表へ二度目の注進に立つ。
 先に江戸へ向かった庄八、萬吉の二人は、道中で七代目の妾のお為の一行と出会い、話に手間取って遅れたというが、先に江戸に入ったのは寅吉で、十六日の夜、九ツ時(十二時)に猿若町へ着いて善兵衛に報告し、それから親族や河原崎權之助にも急報した。(庄八、萬吉の江戸着は十九日という)
 八代目團十郎変死の知らせを受けた善兵衛は、翌十七日、まず関係する名主へ此の旨を届け、昼時頃に南町奉行所へ前出の書面を提出した。書面では、「子細不知自害相果候に付」とあって、自殺の動機については、持病の疳症が起こって「打臥強く取昇せ候哉」といっているだけで、あとは大坂でのその後の処置に簡単に触れ、團十郎と同道の同人弟、重兵衛が飛脚を以って申し越しましたので、此の段、お訴え申し上げ奉ります、と結んでいる。
 八代目團十郎の辞世は、「うしろ富士難波に残す旅の笠」
 法名は、篤譽浄莚實忍信士。
 茶臼山の西方にある板松山高岳院一心寺に葬った。(以上、『歌舞伎年表』)
 これについて、『ききのまにまに』では、「御検死のうへ、死体仮埋めを仰付らる、則攝州天王寺村浄土宗一心寺江葬る」
 又、法名は、觀恵智恩信士、辞世は、「夜明ければ義理と孝とにからまれてためを思ひて吾身果行(わがみはてゆく)」
 とあって、法名と辞世が違っている。
 同書には、更に、
「(父親の)海老蔵は野辺の送りのかへさ(帰り道)に行方しれずになりしが、やがて高野山に入しと聞こえしかど、其後早々中の芝居へ出勤興行」
 と載っている。やはり、七代目にとって、まさかの大ショックだったのだろう。
 八代目團十郎の人気は大変なもので、嘉永三年(1850)三月の中村座の助六(「助六廓の花見時」、半太夫節で、彼にとっては二度目の助六)では、水入りで八代目團十郎が入った天水桶の水が徳利一本一分で忽ち売切れて足りない程だったという。
 その三年後、三代目中村仲蔵が書いた『手前味噌』の嘉永六年(死の前年)六月のところに、
「この頃、八代目大人気たちて何をしても大てい大入にして云々」
 とある。八代目團十郎は人気絶頂の時に死んだのである。
 八代目團十郎は、前出の善兵衛の書面にも「持病の疳症」が起こった、とあるように疳癖で、年若くして市川團十郎という大名跡を継いで、それに負けまいという気が強かったせいかプライドが高くて、先輩の役者とのトラブルも結構あったようだ。
 伊原青々園(敏郎)の『近世日本演劇史』によると、八代目團十郎は容姿と風采に優れ、声は疳走って高く、七代目九代目などと同様、市川家独特の名調子で、口上などは辯舌さわやかだった、とある。
 書画にも長じ、俳句もなかなか上手だった、として、次の三句が挙げてある。
 ・魚刎ねて涼しき月や水の隈
 ・枯れし野に一筋青し隅田川
 ・山畑は鎧の袖か五月あめ
 又、小唄の「梶の枕」と「露は尾花」は八代目團十郎の作とある。「梶の枕」という唄は今は伝わっていない。又「露は尾花」の方は、ポピュラーで今もよく聞かれる唄が果してそれなのか、よくわからない。(以上、『近世日本演劇史』)
 八代目團十郎の突然の死は江戸市民にとって寝耳に水のショックだった。
 人気絶頂だっただけに、死絵という故人を追悼する絵の刷り物は三百種を越えたという。
 三升屋二三治の『芝居秘伝集』の四十七項に、「八代目自殺」として、
「此のとき江戸中大評判にて、何処へ行きても此の話計りなりしが、果して町々の錦絵店、三升の死絵のみにて他の画なし。古今稀なる人気と驚きたりし」
 とある。嘉永七年は十一月の末に安政と改元になったので、その翌年の安政二年の春、浅草の奥山で八代目團十郎の一代記を生人形の見世物にした興行が大当たりで、百二十日間で千五百両の利益があったという。八代目團十郎の人気の程が偲ばれる。

 明治時代には、まだ実際に七代目や八代目團十郎の舞台を見た人達が生きていて、書いた物や談話の記録が残っている。
 明治の各界名士達のインタビュー集、『唾玉集』にも芝居に関する話がいくつか載っている。
 その中で、「天保時代の梨園」と題した四方梅彦の話の中に八代目團十郎のことが出てくる。
 四方梅彦は、初め初代柳亭種彦の門に入って戯作者となり、後年河竹黙阿弥の紹介で狂言作者となって竹柴瓢蔵といった。晩年は『歌舞伎新報』の客員だった。
 蜀山人は狂名を四方赤良といったが、これは四方という酒屋に因んで付けた名で、赤良とは酒のことである。四方梅彦は新和泉町(今の人形町三丁目辺)にあった、その酒屋の倅で、文政五年(1822)の生まれである。八代目團十郎より一才年長になる。
 四方梅彦とのインタビュアは伊原青々園である。
「今の堀越(九代目團十郎)の兄貴の八代目は余程の変人でね、当時は家内が苦しかッたから、方々から金を借りたものだが、利息を払ふに他人に持たせて遣るなんてえ事は一向しないで、皆自分が持ッて往く、誠に義理堅い男で御座いましたよ、大坂で自害したのも、つまり此の気風だから江戸の御贔屓に面目がない、済まない、済まないと思詰めて取上ぼせたからで御座いますよ、器量は今の九代目より悪かッたが、親孝行といふので滅法人気があって、それに芸の上手で、特に大坂へ行く年の狂言なぞは大出来で御座いましたよ」
 (嘉永二年四月、八代目團十郎は大坂にいる父の海老蔵に会うため江戸を立ったが、その前月、御名残狂言と銘打って河原崎座で「勧進帳」の弁慶を演じた)
 九代目團十郎の写真を見ると、顔が長く、あまり美男とはいえない。それより劣るとすると、むしろ醜男ともいえそうだ。
 八代目團十郎は、その当たり芸に、切られ与三、勘平などがあって、二枚目の印象が強い。この四方梅彦の話の聞き手、伊原青々園は前出のように自著の中で、八代目團十郎のことを、「容姿と風采に優れ」といっている。どっちが本当なのか?
 一応、そのまま書いておく。
 四方梅彦の話で、八代目團十郎についてはこれだけだが、歌舞伎ファンにとって興味のある話がそれ以外にも出ているので、もう少し引用させて貰うと、
「当時の菊五郎(三代目)なんぞは、昔にもない名人だ、と葛飾の北斎も申した位だから、成程、当時が一番役者揃の時代かと思はれますね、しかし、私は一概に昔ばかりを贔屓するぢゃ御座いません、今の(九代目)團十郎だッて、「忠臣蔵」の四段目だけは親に優ッて居りますよ、だが、「勧進帳」なんぞになると、あれは七代目が中興しただけに、如何も九代目も及びませんよ」
 四方梅彦は明治二十九年に死んだ。享年七十五才だった。

 歌舞伎座での海老蔵襲名披露興行から書き始めて、とんだ横道に深く入り込んでしまったようだ。
 次回は話を元に戻して総まとめとしたい。

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