第48話 『襲名披露興行(三)、遠山の金さんと天保改革』

 前回、遠山金四郎のお陰で江戸の芝居が命拾いしたと書いたが、伊原青々園の『歌舞伎年表』の天保十二年(1841)のところに、次のようにある。
「十一月二日、水野越前守より町奉行遠山左衛門尉に『風聞書』なるものを下し、意見を問ふ
 十一月十日、遠山左衛門尉より越前守へ直ニ上ル」
 として、『芝居場所替外取締の儀に付勘辨仕候趣申上候書付』という書面が載っている。
 長文なので、要約しながら挙げるが、先ず、
「二日に頂いた、堺町葺屋町芝居場所替え其の他、歌舞伎役者共の風俗等の義に付いて、『風聞書』の箇絛へ夫々勘辨した趣を申し上げる」とある。
 風(『風聞書』)「最初は芝居の場所替え、破却の問題で、芝居の興行場は繁華な場所にある為、度々焼失し、その都度場所替えの話が出ているが、いつも、三座の起立には由緒があるといっている」
 遠(金四郎)「堺町、中村座は二百十八年、葺屋町、市村座は百七十八年、木挽町、河原崎座(三座というのは中村座、市村座、森田座であるが、この時は森田座に替ってその控え櫓の河原崎座が興行していた)は百八十二年、相続して来ている」
 風「この度、堺町葺屋町両座が焼失したので、場所を移転すべきか、又は、破却(廃止)すべきか、を勘考し、更に調べたところ、劇場は遊戯の場所とは申せ、便利の筋も相聞こえ、破却には当たらないというが————」
 遠「芝居町の場所替えについては、これまでも度々、御沙汰があったが、先役の者共が委細申し上げて来た通りで、旧来その侭に差し置いて来た。しかし、破却という話は初めてで、これまで議論もなかったので、全く存じよらないことである」
 その他、芝居で上演の狂言が勧善懲悪でなく、淫奔の風紀上よろしくないものばかりだとか、役者が高い給料をとって分不相応な贅沢をしているとか、かなり細かいことまで『風聞書』では具体的に触れている。
 金四郎はそれに対して、今後、狂言は専ら勧善懲悪の意を綴り候ようにさせ、役者の奢りについては、不埒の至りつき篤と相糺す、と『風聞書』の指摘を認め、その処置対策を述べているが、場所替えについては、深川、向嶋、青山四谷など具体例を挙げてデメリットを強調し、最後に、享保、寛政の御改革の時にもその前後に度々三芝居が類焼しても場所替えの御沙汰はなかった、この度は再建の普請に取り掛かる前に、火災の害にならぬよう取り締まり方を厳重に申し渡し、場所替えはせず、このまま今の場所に差し置き度い所存、と書いている。
『歌舞伎年表』には、この後に、
「一説には、御右筆成瀬吉右衛門が越前守の芝居破却に決定し、既に其の運びをなし居る事を遠山に急報せしより、直に答書を作り弁護して破却の難を救ひたりともいふ」
 とある。
 遠山金四郎はこの時、北町奉行で、南町奉行は矢部駿河守定謙(さだあき)である。
 矢部は、燿甲斐(ようかい)といわれた鳥居甲斐守燿蔵の術策により、この翌月の十二月に南町奉行の地位を取って替わられる直前のことで、果して遠山と同様、意見具申を求められたか、どうか、わからない。
 金四郎の答申に対して、評議の上、裁定が出たのは十一月十八日で、劇場の破却は免れたものの、場所替えという厳しい決定だった。
 翌十一月十九日、「堺町専助店、狂言座、勘三郎外拾九名」宛に手渡された触書には、まだ移転先は特定していないが、「取調追て可及沙汰」とあり、焼失していない河原崎座についても、「類焼大破の節は是又引払申付候間、其旨可存」と言及している。
 その後、操り座を含め、江戸三座は後に猿若町となった浅草山の宿の小出伊勢守の下屋敷跡へ一まとめに集められ、役者はすべて同町内に居住し、出歩く時は編笠着用とされた。
 七代目團十郎の海老蔵が江戸を追放されたのは、翌天保十三年六月のことである。
『武江年表』によると、猿若町に於いて、同年八月、操り座初興行、九月には中村座、市村座が、更にその翌年(天保十四年)の九月、同じく木挽町から移転して来た河原崎座が初興行、とある。
 七、八代目團十郎周辺の記録を目につくまま拾って来たが、記述に誤りがあってもそのまま挙げたものもあるので、補足しておく。
 弘化二年五月、八代目團十郎は親孝行で褒賞され、北町奉行所に呼ばれて銭十貫文を褒美として貰った。『巷街贅説』では北町奉行は遠山左衛門尉となっているが、この時、遠山金四郎は南町奉行であって、北町奉行は鍋嶋内匠頭であることは前に書いた。『天弘録』には褒美の金は白銀とあったが、通常こうした褒美の金は銭で渡されるのが普通なので、これに関しては、『巷街贅説』の方が正しいようだ。『真佐喜のかづら』という書には、「為褒美鳥目拾貫文とらせ遣す」
 とあり、銭となっている。その後に、
「前書之通町奉行鍋嶋内匠頭役宅において被申渡候付、市中町々自身番屋江張置候程にて、古今めづらしき行」
 とあるから、自身番屋に貼り出すなどというのは珍しいことだったのだろう。
 喜多村信節の『ききのまにまに』には、
「(弘化二年)五月六日、当市川團十郎親海老蔵へ孝心に付青緡十貫文御褒美被下、間もなく此由板行して売ありく」
 とあるから、このことは瓦版にも刷られて世間に喧伝されたようだ。
 さて、八代目團十郎の自殺についてだが、当時としては大変ショッキングな事件で、書かれたものも多く、自殺の原因については諸説ある。
 前出の『歌舞伎年表』の中の「三升(八代目團十郎)噂はなし」にその説が出ているが、末尾に、「以上衆人の噂をあつめたるもの、就中第一条は町奉行探索掛の書上げなり」とあるので、その第一条だけを抽出して挙げる。
「(八代目團十郎は)竊に大坂に上がり興行しては、江戸の金主に不済(申し訳ない)由にて死たりともいへど実は然らずといふ。名古屋若宮芝居興行中、父は大坂より八百両受取り、八代目上坂のことを約し、八代目も是非なく上阪したれど、興行しては江戸へ不済といひしを父は怒りて、我妾さとと通せるを知り居れど此まで口外せず、今汝大坂を断らば、われ大坂の金主へ済まずといふ。為女が讒言と思へば、いろいろ辨解すれど聴かず、餘儀なく出勤とは極たれど密かに江戸の帳元へ書をやりて、御尊判を願ひてなりと迎ひをこすべしと言やりけるに、為女が私慾より名古屋の給金も横取りし、今大坂の分も利得にせんとて帳元へ堅く断りて迎を出させず。團十郎は待てども迎ひ来らず、遂に自害せりと言ふ。腹は切らず咽を突、人に知られぬやう苦痛の聲をも出さざりしと云。又両膝を細帯にて巻、紋付の帷子袴をつけしといふ。
 おためは猿蔵(七代目の四男、為の子)を九代目にせんと色々悪計をなし、團十郎を斥けんせしより自害せり」
 ここに出ている、さと、為というのは七代目の妾の名である。七代目には三人の妻と三人の妾がいた。長男の八代目團十郎と次男の重兵衛は三人目の妻、すみの子で、次男の重兵衛は疱瘡で片目を失い、役者にならず、後に失踪して行方知れずになったという、三男は六代目高麗蔵(後の七代目海老蔵)で、妾さとの子、四男は猿蔵、五男は河原崎權十郎で、後の九代目團十郎、六男は市川幸蔵、七男は八代目海老蔵で、この四人は、いずれも為の子である。
 為は七代目が最も愛した妾で、江戸追放になった時も為だけが七代目と同行した。為については、『多和戯草』(たわけぐさ)という書の冒頭に「お為ごかしの魂譚」という章があって、典型的な悪女として書かれている。八代目團十郎を自殺に追い込んだのは為のせいとしている。
「三升噂はなし」の続きの記述によると、七代目が追々老衰して息子(八代目團十郎)に逢いたがっているから、夏休み中に名古屋へ来るように、と八代目團十郎に勧めたのは為だったという。
 以前、「重ね扇」(三)(第二十一回)で、二代目團十郎が夏の六、七月の暑い間、休みをとって以来、主な役者達が夏休みをとるのが恒例になった、と書いたが、八代目團十郎もそれに託けて江戸を立ったようだ。名古屋へ行くことは伏せて、『ききのまにまに』によると、自分は病身なので、療養の為、相州豆州の間の温泉場へ行く、と稱して、六月廿九日に江戸を出て、七月九日に名古屋に着いた、とあるが、八代目團十郎の自殺後、市村座の興行人の善兵衛という者が提出した書面には、
「私抱役者之内團十郎儀兼て心願有之、信州戸隱山へ参詣に付伊香保温泉へ罷越度」
 とあって、行く先が違っている。
 当時の市村座の座元、十三代目市村羽左衛門(後の五代目尾上菊五郎)はまだ十一才で、善兵衛はその後見人だった。
 善兵衛のこの八月十七日付の書付は南町奉行所に届け出たものだから、この方が本当なのだろう。(この時の南町奉行は池田播磨守頼方である)
 八代目團十郎は最初三十日間という予定で出かけたが、出先から更に二十五日の日延べをいって来た、ところが昨日(八月十六日)、大坂からの飛脚で、伊香保から四国の金比羅へ参詣に行くことにした、といって来た、日延べをいって寄越した時には、そんなことは何もいっていなかった、と善兵衛は書いている。          
          —————-この稿続く—————-

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