第47話 『襲名披露興行(二)、七、八代目團十郎』

 七代目團十郎が初めて大坂を訪れたのは、文政十二年(1829)で三十九才の時のことである。
 人気絶頂で、大坂では七代目を歓迎する次のような唄が出来た。
「蝙蝠(こうもり)が出て北浜の夕涼み、川風さっと福牡丹、荒い仕掛の色男、去なさぬ去なさぬ何時迄も、浪花の水にうつす姿絵」
 蝙蝠、福牡丹など成田屋の紋を詠み込んでいる。
 この唄は今でもよく耳にするが、元の曲節は失われてしまい、今の唄は初代清元菊寿太夫が新たに節付けしたものといわれている。
 七代目團十郎は生涯に四度、上坂しているが、二度目は天保五年(1834)四十四才の時で、既に團十郎の名跡は二年前の天保三年に長男の海老蔵に譲り、自分は再び元の海老蔵に戻っていた。
 天保十三年(1842)六月、奢侈のつみで江戸十里四方追放となった七代目(以下、七代目で通す)は成田山の寺内、延命院に引き籠もり、その後、下総埴生郡幡谷村に移り住む。
 翌天保十四年、七代目は三度目の上坂をして、十一月大坂角の芝居に出演した。
 七代目、五十三才。
 その二年後の弘化二年(1845)五月、八代目團十郎が、親孝行であると奉行所から表彰され褒美を貰った。
『巷街贄説』巻五に「三舛孝褒」とあって、

       猿若町一町目専助地借
             歌舞伎役者
           八代目 團十郎
             同人母
                すみ
             町役人

 其方儀、幼年よりにうわにて、父母の心に背く事無く、芸道心掛、去寅年(天保十三年)父海老蔵御仕置に相成り、其方若年故給金もおとり、其上借財厄介多、難渋之暮方に有之処、
———以下略———–

 以下長文なので要約すると、父に仕送りを続け、質素倹約の生活をし、父が病気の時には自ら看病し、弟や妹ばかりか父の弟子で七十才になって扶養者もいない團兵衛という者の面倒を死ぬまでみてやった。又、蔵前の成田不動の別院に毎朝日参して、父が一日も早く戻れるよう祈願した、などとあって、
「右体の孝心を尽し、兄弟等の世話行届段、きどく之儀に付、為御褒美鳥目十貫文とらせ遣はす
   已五月   」
 更に続けて、
「右は、北の奉行所にて、遠山左衛門尉被仰渡候趣、浅草最寄は勿論、町々番屋々々へ張出し有由、爰に記すは往還を売歩行くものを贄す家業柄といい是も又大江都の名物なるべく、やがてぞ白猿の免許もあるらんと、ひいきとりどりの風説なりし」
 北の奉行所にて遠山左衛門尉とあるが、この時、遠山の金さんは南町奉行であって、北町奉行ではない。北町奉行は鍋島内匠頭である。
 町々の番屋にこれらの張り紙をさせるなど、いかにも訳知りの金さんらしく思えるが、『天弘録』の同じ五月のところに、
「○五月十一日、歌舞伎役者八代目市川團十郎、父母へ孝行を尽し、依之町奉行鍋島内匠頭御役宅に於て、御褒美として白銀被下之」
 とあって、北町奉行鍋島内匠頭となっている。褒美の金子も十貫文といえば銭だが、ここでは白銀としている。
 嘉永二年(1849)の四月に八代目團十郎は、久しく上方に行ったままの父、七代目に会う為に大坂へ出かけて行った。
 その時、出来た唄が、
「つがもねえ男気の、花のお江戸をはるばると、ここに三升の團十郎(なりたや)と唐までも、人の噂の八代目、さぞや色香も深見草、親子手に手を酉の年、富士の山より贔屓の山が、ほんまに名高い親玉さんぢゃわいな」
 嘉永二年は酉年、深見草は牡丹の異稱である。この曲節も今は伝わっていない。
『俳優世々の接木』では、この大坂行きを嘉永元申年のこととしているが、唄の文句に「親子手に手を酉の年」とあるところをみると、嘉永二年の誤りだろう。この文句から、この時、二人は同じ舞台で共演したようにもとれるが、八代目團十郎は京大坂の芝居には出演せず、高野山へ参詣した後、京都の名所を巡って八月に江戸へ帰った。(『俳優世々の接木』)
 この年、嘉永二年の暮れに、七代目はやっと御赦免になる、
 江戸十里四方追放となった天保十三年から七年後のことである。
 前出の『巷街贄説』の巻六に、

      申 渡
          猿若町一町目専助店
           歌舞伎役者
               團十郎
 其方父海老蔵儀、先年深川島田町熊蔵地借十兵衛方同居罷在候節、不届有之追放申付置候処、弘化四未年文恭院様七回御忌御法事之御救に、御免被仰付候間、其旨可存
   酉十二月廿五日

 文恭院とは十一代将軍、徳川家齊の法名で、その七回忌の法事の特赦によって許されたということである。しかし、家齊が亡くなったのは天保十二年(1841)で、七回忌というと弘化四年(1847)に当たる。赦免状が出たのは嘉永二年で、その二年後になる。
 家齊が死んだのは天保十二年の閏正月三十日だから、二年後とはいうものの約三年近くの月日が経過している。なんで特赦にそれ程時間がかかったのか不思議だ。
 親孝行で有名な八代目團十郎が放れ放れになって大坂にいる父を江戸からはるばる尋ねて行く、という美談が世間に広まり、儒教の教えに基づいて親孝行を奨励する幕府が恰好の材料とみて施した特別な処置だったかもしれない。
 翌嘉永三年早々、七代目は晴れて江戸へ戻り、三月の河原崎座の舞台に立った。
 追放以来、八年ぶりのことである。
 その七代目は又、嘉永六年の正月から上坂して角の芝居へ出演する。
 四度目の大坂行きである。前回の大坂行きで莫大な借金を負った為ともいわれている。
 翌嘉永七年(嘉永七年は十一月に安政と改元になる)の夏、八代目團十郎は名古屋へ行き、大坂から下って来た父の七代目と一座して共演、「古今の大入大当たり」(『俳優世々の接木』)だったとある。
 その後、八代目團十郎は父の七代目と同道して大坂へ行く。
 実は、八代目團十郎には市村座との契約があって、名古屋からすぐ、江戸へとって返すつもりだったのだが、父親から一緒に大坂に来て中の芝居へ出るように強いられ、断わり切れず、止むを得ない大坂行きとなったのだった。
 七代目と八代目團十郎親子は大坂へ船乗り込みをしたようだ。『俳優世々の接木』によると、
「閏七月廿八日夜桜の宮(名古屋)より中の芝居へ乗込その人気いわんかたなく川筋迎ひに舟篝り提灯萬燈の如く実に天神祭り同様也」
 とあり、大坂では大変な歓迎ぶりだった。
 八月六日が初日と決まり、その前日の五日、総稽古もすんだ夜、大坂嶋の内の宿、植木屋久兵衛方で八代目團十郎は自殺した。享年三十二才だった。
 自殺の原因やその背景については長くなるので次回に譲り、今回はその後のことを簡単に記して終わることにする。
 八代目團十郎の自殺は誰も気付かず、朝になって大騒ぎになった。『俳優世々の接木』の続きに、
「跡のそうどう大方ならず父白猿(七代目)を始家内は勿論芝居掛りの者一統まで途方にくれ道頓堀川竹も闇夜に火の消たる如く也」
 とある。
 七代目はこの四年後の安政五年十二月に江戸へ戻り、翌安政六年春の中村座に出勤したが、同年三月、草摺引の五郎に出演中に倒れて、河原崎権之助(河原崎座の座主で九代目團十郎の養父)宅で亡くなった。(『俳優忌辰録』)
 六十九才の生涯だった。
               ———–この稿続く——–

 *お詫びと訂正 前回の稿中、筆者のミスで年号の一部と八代目團十郎の年令に間違いがありましたので、遡って訂正させて頂きました。(本文訂正済み)

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