第46話 『襲名披露興行(一)、睨み』

 この五、六月の歌舞伎座は十一代目市川海老蔵の襲名披露公演である。
 襲名といえば口上があり、市川家の場合はそれに「睨み」というパフォーマンスをしてみせる。
 市川家の襲名に「睨み」は今ではつきもののようになっているが、元々は襲名時にやるものではなく、正月の仕初式(しぞめしき)という儀式の一部だった。
 仕初式とは、小池章太郎著の『考証江戸歌舞伎』によると、芝居年中行事の一つで、春正月一日からの三日間、座頭(ざがしら)役者が「巻触れ」(まきぶれ)という春狂言の名題、配役を書いた巻き物を読みあげた後、「一つ睨んでご覧に入れます」といって裃(かみしも)の肩をぬぎ、左手に巻き物をのせた三宝を持ち、右手を胸のあたりに握ってキッと見得をする。これは、座頭でも市川團十郎の専売特許の見得、とあるが、襲名の口上での「睨み」はこの仕初式の光景を復活、再現させたもので、戸板康二著の『歌舞伎十八番』には、最初は昭和十一年十月の明治座で二代目市川左團次が亡父の胸像を建てた時の記念興行で、次は昭和二十七年五月の歌舞伎座で男女蔵の三代目市川左團次襲名の時、その後、海老さまといわれた海老蔵が十一代目團十郎を襲名した時、夫々口上の後で演じた、と載っている。團十郎以外の二人も市川姓を名乗る役者として「睨み」を演じた訳であるが、幕末まではこの仕初式の「睨み」は團十郎にしか許されていなかったという。
 十一代目團十郎の襲名以来、「睨み」は市川家の襲名時の恒例となったようだ。

 座かしらハにぎりこぶしへあごをのせ
    (五五、文化八年、1811)

 この句は仕初式を詠んだものとして、前出の二書にも出ているが、西原柳雨編の『川柳江戸歌舞伎』という本では、墨染桜の関兵衛や山門の五右衛門などの睨みとしている。
 句の脇のカッコ内の和数字は『柳樽』の篇数で、下に刊行年とその西暦を表示しておいた。この句は『柳樽』第五十五編の句で、文化八年(1811)刊行である。引用句については以下同様。出典が『柳樽』以外の『万句合』等の句については刊行年のみを記した。
 座頭というのは、一座の役者の内で、人品、伎倆ともすぐれた者がつくべき地位で、当然ながらその座の芸術的責任がある。團十郎だけが座頭ではないが、家柄がなくてはなれず、家柄がなくて座頭になったのは、有名な初代中村仲蔵と幕末から明治にかけて名優といわれた四世市川小團次の二人だけだという。(『考証江戸歌舞伎』より要約)

 手のひらを握って睨む荒事師
   (三八、文化四年、1807)

 荒事は初代團十郎以来、市川家の御家芸である。歴代の團十郎は目が大きかったといわれているが、確かに小さな目や細い目では睨んでも凄みがない。

 海老蔵は役者の中で大きな目
    (天保年中)

 この海老蔵とは、『歌舞伎十八番』を制定した七代目團十郎のことである。
 寛政三年(1791)生まれの七代目團十郎は、新之助として五才で初舞台、寛政十年八才の時に海老蔵と改名、寛政十二年十才で七代目團十郎を継いだと『俳優忌辰録』にある。
 七代目は天保三年(1832)に長男新之助に八代目を譲り、自分は再び元の海老蔵に戻った。八代目は文政六年(1823)深川木場生まれで幼名を新之助、文政九年海老蔵と改むとあるから四才の時の改名である。以下『俳優忌辰録』によると、
「天保三年三月市村座にて八代目團十郎と改め八年春市村座初舞台初座頭弘化二年(1845)五月七日親孝行に付御褒美頂戴嘉永二年(1854)四月上坂同年八月帰府安政元年(1854)七月尾州より大坂え登り名古屋にて興行八月朔日大坂表へ着六日変死、大坂一心寺に葬る」
 とある。これによると、八代目を襲名したのは十才の時で、座頭になったのは五年後の十五才の時となる。しかし、その前の「八年春市村座初舞台」とあるのがわからない。これでみると、八代目團十郎を襲名して五年後に初舞台を蹈んだようにもとれるが、初座頭としての初舞台ということなのだろう。
『歌舞伎十八番』では、八代目は十六才で市村座の座頭になったとして、面白いエピソードを記している。その春の仕初式の時に先輩(五代目沢村宗十郎らしい)に侮辱され、自分の寿命は三十才に縮めてもいいからいい役者になりたいと願をかけたという。
 今回の新海老蔵襲名公演で、團十郎と海老蔵の共演は百何十年ぶりとか、いっているのは、この七代目團十郎の海老蔵と八代目團十郎の親子以来ということである。
 十才で八代目團十郎を襲名した、その天保三年の頃、巷間で流行った唄の
文句が『巷街贅説』の巻三に出ている。
 それは今日でも耳にすることが出来る「お江戸日本橋七ツ立ち——–」という唄の元唄、「お前を待ち待ち蚊帳の外———-」という唄で、それに次いで替え唄として、
「お江戸で名高き團十郎、あらためて、海老蔵になります親の株、コチャ、下手でも上手でもかまやせぬ」
 團十郎という名前が大事で、十才の團十郎の芸にそれ程期待をかけちゃいない、下手でも上手でもいいんだ、といっているようにもとれる。その当初は世間からあまり期待されなかった八代目は真面目な性格で、やがて大変な人気役者に成長して行く
。  話が大分横道に逸れてしまったが、前に挙げた「海老蔵は役者の中で大きな目」という句は、実は単に海老蔵の目が大きいこと詠んだものではなく、別なもう一つの意味をかけていっているのである。そうでなければ、この海老蔵が何代目の海老蔵なのか、わからない。そのもう一つの裏の意味から、七代目團十郎の海老蔵とわかるのだ。
 持って廻った云い方をしたが、今でもひどく怒られることを大目玉を喰らうという。この大目玉と七代目自身の大きな目をかけていっているのである。
 天保十二年(1841)、水野越前守の天保の改革により「質素倹約令」が発令され、庶民の贅沢な行為は厳しく規制されたが、七代目のそれを無視したような種々の振る舞いが幕府の忌諱に触れ、奢侈の咎で翌天保十三年五月(四月とする説もある)に南町奉行鳥居甲斐守の役所に召喚され、手錠のまま家主にあずけられ、六月に江戸十里四方追放を申し渡された。
 そのことを大目玉を喰らったこととして、七代目の大きな目とかけて詠ったのが、「海老蔵は——-」の句である。
 『藤岡屋日記』の天保十三年六月二十二日の所に、
「歌舞伎役者海老蔵、奢侈の故をもて、江戸十里四方追放を申付られたり、
     市川海老蔵、不届きに付公より手鎖の御咎を
 身のほどを白猿ゆへの御咎を
     手にしっかりと市川海老錠」  とある。白猿は七代目の号で「はくえん」だが、ここは「しらざる」と読む。
 天保十二年から天保十三年にかけては、芝居の関係者にとって受難の年だった。
 天保十二年十月七日の明け方、堺町から出火近辺に類焼。この火事で、中村座、市村座のニ座が焼失した。折から天保の改革の真っ最中で、芝居などは倹約令に反する無用のものであるから、これをしおに劇場を閉鎖すべしという強硬論も出たが、それに反対したのは北町奉行の遠山左衛門尉景元だったという。遠山左衛門尉というのは我々がよく知っている遠山金四郎の金さんである。金さんの背中に桜吹雪の彫り物があったか、どうかの詮索は別にして、下世話に通じている金さんは、江戸の庶民には芝居という娯楽は絶対に必要なもの、と主張した。この件は結局、当時まだ場末の浅草山の宿近くの丹波園部二万六千石の大名、小出家の下屋敷の跡地に三座並びに操り人形座を移転することで決着し、江戸の歌舞伎はどうにか命脈を保つことが出来たが、これは偏えに金さんのお陰といわれている。
 天保十三年四月二十八日から、芝居小屋の移転地は猿若町という名稱になった。それ以後、歌舞伎役者は猿若三町の内に住まわせられることとなった。『武江年表』に、次の歌が載っている。
 をちこちのたれもむれくる山の宿
    さるわかまちとよぶ小鳥かな

 テレビや映画でお馴染みの遠山の金さんは南町奉行だが、遠山金四郎は天保十一年から十四年まで(1840~1843)北町奉行を、弘化二年から嘉永五年まで(1845~1852)南町奉行と二度にわたって南北双方の町奉行を勤めている。猿若町への移転話の時、金四郎は北町奉行だった。
 次回は、七代目と八代目團十郎のその後について—————

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