第45話 『隠語・符丁(二)、七兵衛』

 邦楽の唄い手が舞台の上で尻の下に敷いて使う小型の椅子状の台をアイビキという。
 尻と床の間に支うことから、その名があるのだろう。体重をアイビキが支えてくれるので、長時間坐っていても足が痺れない。
 長唄などを始め、一般的にアイビキといっているが、流儀によっては異なる呼稱もあるようだ。
 昨年、女流義太夫の竹本越孝師の会の時、司会の鈴々舎馬桜師匠が、義太夫の方ではアイビキのことを七兵衛というが、どうして七兵衛というのかわからない、七兵衛さんという人が考案したのだろうか、という話をされていたが、七兵衛というのは江戸時代の隠語で尻のことである。
『江戸語の辞典』(前田勇編)に
「操り・浄るり社会隠語。尻」
 とあって、三例を引用している。それは、『金枕遊女相談』(洒落本)、『辰巳婦言』(洒落本)、『小野愚嘘字尽』(滑稽本)で、刊行年不詳の『金枕遊女相談』を除く二書はいずれも式亭三馬の作である。『辰巳婦言』は寛政十年(1798)、『小野愚嘘字尽』は文化三年)1806)の刊行である。
『江戸語の辞典』に、「操り・浄るり社会隠語」とあるのは、俗に「手すりのせんぼ」といわれていたもので、手すりとは操りの人形使いのことで、せんぼとはその人形使いや操り芝居の関係者が使っていた隠語のことである。せんぼは又、せんぼう、せんほ、ともいった。
『浪花見聞雑話』という本の「せんほ」のところに、
「安永より天明(1772~1788)にいたりて、町々にせんほを用扱、多くは芝居懸りたいこ持茶屋亭主其餘町々にて是を遺ふ」
 とあって、二十八例と、一から十までの符丁を挙げている。
 このせんぼが、どうやら操り関係者によって江戸へもたらされ、寛政から文化(1789~1817)にかけて、深川辺りから流行ったようだが、文政以後は下火になったという。
 三馬は流行語に敏感で、作中に屡々とり入れて説明を加えたりしている。『辰巳婦言』では、三十以上のせんぼをあげているが、その中に七兵衛が入っている。
 代表作の一つ、『浮世床』の第二編上(文化十一年刊、1814)にも、

銭(銭右衛門)「あの爺さまは一体大坂うまれで、義太夫の三味線を弾いたり、人形をつかったりして、田舎芝居を歩いた者さ」短(短八)「それだから操座の楽屋でつかふ、隠語をば、よヲく覚居た」銭「センボとか、センボウとかいふものだね」土龍「サンショとも云ひやす」

 サンショというのは校注によると、「もと無頼の徒の用いる隠語をさしたが、後にセンボと同化」(本田康雄校注)とある。
『小野愚嘘字尽』(おののばかむら、うそじづくし)は、『小野篁歌字尽』という本のパロディで、その中の、「何が不足でかんしゃくの枕言葉」という所で、隠語をずらっと挙げた後に、
「右の外、あまた尽くしがたし、とぐり、せんぼ、近年はやるゆえ、ここに詳しくせず」
 とある。
 最近、テレビなどで、旨い、というのを、まいう、とか、寿司を、しーす、とか、いう言葉使いをよく耳にするが、こうした上下をひっくり返したような言葉は、「とぐり言葉」といって江戸時代からあった。ちく(口)、りしませぬ(しりません)等々。
 とぐりとは、蛇がトグロを巻くなどというトグロから来た、巻くとか、廻すとか、いう意味だというが、案外、手繰る、という単純な言葉から出来たものかもしれない。
 枕言葉というのも妙な表現だが、前回に挙げた「忘れた」を「桶屋の前垂れ」というのを例にとれば、「そいつは、桶屋の前垂れ、で、忘れた」といった時、桶屋の前垂れが、忘れたの枕言葉的に使われているとみたのだろう。『歌字尽』のもじりなので、枕言葉といったと思われる。『江戸愚俗徒然噺』という書の「せんぼといふ言葉并割詞(わりことば)の事」の所に、せんぼに関連した話が二つ出ている。
『江戸愚俗徒然噺』は序文に「天保八たらず取集めたる酉の初春」とある。天保八年というと一八三七年で酉年に当たる。著者は、案本胆助(あんぽんたんすけ)となっているが勿論、偽名で誰かは不明である。
 その冒頭に、
「千本(せんぼ)などと名付て、深川あたり芸者の符帳ともいふ心持ちにて、素人にわからぬ様の通言あり、たとへば酒の事を清三(せいざ)と名付、餅を孫兵衛、たばこを孫右衛門、きせるを丁けいと、何事も弁ずる様にこしらへあり、勿論当時は流行するにあらざれども、三十年已前は専らなり、知らざるは通家にあらずと心得、覚へたる時はむせうにやって見たがる、むかふを野暮人とか田舎ものとか見侮どりて遣ひけるに、思ひも寄らぬ人に知て居られて、あやまりたり恥をかきたり、身の害となりし類ひ多し、前かた湯島のかけま茶やに出ける男芸者の内、弐人組にて内咄し等にも、千本を不断遣ひける、是は深川を重としけるゆへ、湯しまあたりに知るものすくなく、よって能事とおもひ、通家気どりで居たると見へたり」
 とある。天保八年から三十年以前といえば、文化の初め頃になる。
 さて、同書に載っている二つの話だが、最初の話に、七兵衛というせんぼが出てくる。長文なので概畧を述べる。
 ——前文に、「男芸者の内、弐人組にて」とあるのは、糸助と皿八という者である。
 陰間(かげま)というのは男色を売る少年のことで、男色の遊興の場としては芳町が有名だった。石塚豊芥子の『岡場所遊廓考』には、男色の所に、芳町、湯島天神社地、芝神明門前(七軒町号)、八丁堀代地(神田塗師町)と四ケ所が挙げられている。その後に、「此外宝暦明和ノ頃(1751~1771)アリシ地所、当時断絶」として、平河天神前、浅草馬道など、六ヶ所を記しているが、幕末には前記の四ケ所になっていたようだ。
 その湯島の陰間茶屋に、大家(大大名家)の国侍が一人で来て、子供(陰間)や男芸者をあげて騒いだ。侍は初めての客だったが、その内、すっかり興に乗って、越中ふんどし一つの裸になり、扇子を持って屁っぴり腰で踊り始めた。その恰好がおかしいので座中の者は大笑いして囃したてた。糸助が三味線を弾き、皿八がどんぶりの縁を叩いて間の手を入れた。
「おきんちゃ金十郎、コレきんちゃ金十郎」
 客は国侍で、サマにならない裸踊りと云い、とても、せんぼなど知っている筈がない、と思い込んで皿八は、せんぼを使って客の侍を揶揄したのである。
 きんちゃ、とは客のことで、金十郎、とは大馬鹿ということである。
 客の侍は、「そうだ、ちげえねえ」などと云いながら踊り続けている。糸助も三味線を弾きながら、「やっかいな金十郎」、皿八が又、「コリヤ金十郎」というと、侍は、「そうだ、ちげえねえ」「おれは馬鹿だ」と繰り返す。
 調子に乗った皿八が、「金十郎のおきんちゃ、影清にかまった」というと、客の侍は突然、ぺったりと、その場にあぐらをかいて坐り込んでしまった。「お疲れですか」などと声をかけると、侍は急に帰ると云い出した。一座の者は、侍の気が変わった理由がわからず、驚いて引き止める。皿八も、まさか自分のせいで客の機嫌を損じたとは気付かずに、「旦那、旦那、そうどうも御きげんが替りましては恐入屋のかわらけ師」などと客を宥める。その皿八と糸助の二人に侍は、「黙りおれや、図太い芸者めらだ」と怒って、「身共は日頃、殿の御前に出勤窮屈な思いをしている故、その気散じにこうした場所に来て、武士にもあるまじき赤裸になって騒ぎ遊ぶのじゃ、それをお前達二人で、身共がせんぼを知らんと思って、きんちゃ金十郎、この客は大馬鹿だ、と囃したではないか、身共にはわかっていたのだが、それを咎め立てしては興覚めになると思って、お前達が気付くようにわざわざ、そうだ、おれは馬鹿だ、と度々いってもお前達は止めないばかりか、影清にかまった、とほざきよった。影清という言葉は知らなかったので、どういうことか考えたが、今わかった。悪七兵衛影清(景清)で大方、七兵衛のことだろう。尻がかまった、と囃され、身共の面目形なしじゃ。どうだ、その通りであろう、返答いたせ」
 せんぼを知らなかった他の者も呆れて、「二人共とんだ悪い人達だ」、茶屋の女房もびっくりして、「亭主は今、出かけていて居りませんが戻りましたら、この二人の始末はきっとつけますので、どうぞ、機嫌を直して——–」と客の侍をとりなしたが、侍は帰ってしまう。
 その後、この二人は湯島を追い出され、このことが原因で行く先々で構われ、遂には江戸にいられなくなったという話———-

 続いて第二話を紹介するつもりだったが、紙数が尽きてしまった。
 第二話は角力取りの話だが、第一話の七兵衛の話と同様、通(つう)ぶってせんぼを使った前相撲の力士が、とんだ大恥をかくというストーリィになっている。
 隠語や符丁は、この稿の冒頭にも書いた通り、いつの時代でも、様々な分野に存在して来た。
 勿論、言葉は生き物だから、常に変化している。一時大流行した手すりのせんぼも、文政以後、次第に影を潜めたという。前回引用した『合載袋』に載っている明治時代の隠語を見ると、寄席や義太夫の隠語として残っているせんぼも少なくないが、今はどうなっているのだろうか。
 機会があったら確かめてみたいと思っている。
                     終わり

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