第44話 『隠語・符丁(一)、麻布で気が知れぬ』

 隠語や符丁はどんな職業にもある。
 同じ職業で共通しているものもあれば、問屋や小売商では自分の店だけのものもある。
 昔、アメ横の洋服屋へズボンか何か忘れたが、買いに入ったことがある。
 応対に出た若い店員に、もっと安くならないか、と値切ったところ、彼は値札の裏をひっくり返してみて、表の値段とまるで関係がない金額を口走った。どうやら彼は新米で、符丁で書かれた仕入れ値を確認して、ふと、それを口に出してしまったらしい。
 そう直感した私は、「元値がそんなに安いのならウンと勉強してくれよ」といった。
 彼は周章狼狽していろいろ言い訳を並べたが、明らかに図星だったようだ。
 まあ、あまりいじめても可哀そうなので、適当な所で勘弁してやったことがある。
 その店の符丁はカタ仮名で書いてあった。

 ある落語家が咄の枕で、床屋へ行った時に床屋の主人が使っていた符丁を耳にして、落語家の符丁と同じなのでびっくりした、といっていたが、落語家、つまり寄席の符丁は、一を平(ひら、又は、へい)、二をびき、三を山子、四を佐々木、五を片甲、六を真田(さなだ)、七を田沼、八を八幡(やわた)、九をきわ、というようだ。
 真田の六文銭、田沼の七曜星など、紋所からとった符丁と思われる。
 私蔵の『合載袋』(岡本昆石、明治三十年刊)という本に、明治時代の寄席、芝居、魚屋、八百屋などの隠語・符丁が出ているが、今見ると随分大時代的でわかりにくいものも多い。例えば、「東京の隠語」という所では、「遠い」ことを「本所の火事」、「傍にいたい」を「二八にゲンコ」などとある。
 江戸時代、二八そばという十六文のそばがあった。又、「いたい」は「痛い」で、ゲンコで殴られると痛い。
 これらは、いかにも江戸の言葉といった感じである。
「忘れた」を「桶屋の前垂れ」というのもあるが、「輪擦れた」で、輪とは桶のタガのことだろう。
 シモがかったものに面白いものがあるが、遠慮しておく。
 寄席の隠語は今でも使われているものが多いようだ。
「女性」を「タレ」、「客」を「金チャン」、咄家につきものの「扇子」は「風」、「寿司」を「弥助」等々、落語の枕で聞いた記憶がある。
『隠語辞典』(東京堂刊)などという本もあるが、隠語といっても厖大な量だから、当然載っていない言葉もある。
 特に古い時代のものは、今は死語になってわからなくなってしまっているものもある。
 江戸時代、「気が知れぬ」というのを「麻布」といった。
「気が知れぬところ坂まで長いなり」
 という川柳があるが、これは麻布の永坂を詠んだ句である。
 なんで、「麻布」が「気が知れぬ」ということになったのかについて、いくつかの説がある。
 その一、麻布に六本木という所があるが、その六本の木というのは、どの木を指していっているのか、はっきりしない。つまり、木(気)が知れぬ。
 その二、麻布の近辺には色の名がついた地名がある。赤坂の赤、青山の青、白金の白、目黒の黒。しかし、黄色だけが見当たらない。つまり、黄(気)が知れぬ、という訳。
 三番目の説については、馬文耕の『愚痴拾遺物語』(宝暦八年、1758)に「麻布育で気が知れぬ」という項があって、次のような話が載っている。
 その頃、江戸の草花の買い出しというと、麻布の組屋敷へ行ったという。
 組屋敷というのは同じ役向きの御家人達の集合住宅で、江戸の各所にあった。
 御家人と旗本の区別は境目がはっきりしないところもあってなかなか難しいのだが、禄高でいうと、百石以上で一万石未満が旗本で、百俵以下が御家人といわれている。一万石以上は大名である。
 石と俵の違いについて、かい摘んでいうと、武士には知行取りと蔵米取りがあって、何百石取りの侍というのは知行取りの方で自分の領地を持っている者だが、知行地を持たない下級武士は幕府の米蔵から蔵米を貰う。米は俵に入っているので、俵取りともいった。
 百石取りの武士といっても百石の収入がある訳ではない。全部自分の物にしてしまったら百姓が食べるものがない。四公六民といって、大体、百姓六割で自分の取り分は四割という配分が一般的だったようだ。とすると、百石取りの武士の実収入は四十石となる。
俵の方は一俵三斗五升の計算なので、百俵ならば三十五石となる。
 こうして比較してみると、俵よりも石の方が得のように思えるが、知行取りの方は年貢米を集めて江戸へ出荷する運送費などの支出も自己負担であり、米の収穫も、天候に左右され、水害、旱魃などのリスクもある。そこへ行くと、蔵米取りの方は何等そんなことに関係がない。収入、即実質収入で、知行所が遠隔地にある知行取りよりは、蔵米取りの方が得だったそうだ。
 三田村鳶魚は『江戸の風俗』の「御家人生活を説明する古着屋」のところで、
「彼等(御家人)の俸禄は少なかったけれども、拝領地(組屋敷)は割合に広く頂いておりました。—-中略—-御家人の間には、この空地を利用する内職が、逸早く開始されました。麻布の組屋敷から草花を買い出すことは、宝暦のはじめに盛んでありました。続いて代々木・千駄ヶ谷から、鈴虫・蛬(きりぎりす)などの虫類、下谷から金魚、巣鴨・大久保からは植木といったように、御家人などは生計を補うために、俸禄に斉しい、あるいはそれよりも多い収益のある内職を生じました」
 と述べている。
 さて、前置きが長くなったが、話を「麻布育で気が知れぬ」に戻そう。
 堺町辺に花屋を営む六郎兵衛という男がいた。堺町というのは今の人形町の交差点の近くで、江戸三座の内の中村座があった。
 得意先の金持ちの町家から、明日来客があるので、よい黄菊を持って来てほしい、という注文が入ったので、六郎兵衛はその夜、急いで麻布の組屋敷へ行き、黄菊を切って戻って来たのだが、翌朝、持ち帰った菊を見てびっくりした。黄菊だと思って切って来た菊は全て白菊だった。暗い所で切って来たからだろう。改めて麻布へ行っているヒマはなく、止むを得ず、先方へその白菊を持参して行って様々に言い訳をして詫びたが、客はすっかり機嫌を損じてしまった。その客は六郎兵衛方の一番の上得意だったので、何とか機嫌を直してもらおうと、そのとりなしを知り合いの市川海老蔵に頼んだ。堺町という場所柄、懇意だったのだろう。
 宝暦八年に死んだ二代目団十郎栢莚の海老蔵である。二代目団十郎は享保二十年(1735)に海老蔵と改名した。
 海老蔵は六郎兵衛の頼みを聞くと、その場で筆をとって紙にさらさらと書いた。(以下原文)
「先師の句に、
    真白に夜るは黄菊の老にけり
 斯あれば、黄を白とも、黄とも見違ふたるは、此人の罪にあらず、
    白菊か夜は麻布の黄が知れぬ
 と致呉けるを、件の方へ持行ければ、大きに機嫌なをり、珍客をもてなし、間違ひの菊花又馳走になるべし、とよろこびけり、当日の客来は歴々名高き粹方の人々なれば、麻布の黄が知れぬとはまくら言葉、実面白や、と取はやしけるより、堺町役者の言葉となり、新吉原へ渡り、其外隠し町世上一統に成けり、其根元はいささかの事也とかや」
 わからない人がいるかもしれないので、つけ加えておくが、「真白に夜るは」という「夜る」は「年が寄る」ことを掛けていっている。黄菊を、年をとると髪が白くなる人間に、擬人化して詠んだものだ。
 この話が載っている「愚痴拾遺物語」というのはいうまでもなく『宇治拾遺物語』のもじりである。作者の馬文耕は馬場文耕とも云い、伊予の人で本名は中井文右衛門、軍談師で所謂太平記読みだったが、其の後、読み物を現代物に変えて語ったといわれている。著書も多い。宝暦八年十二月に、当時の美濃の金森家の内紛を口演した廉により捕らえられ、同月二十五日(一説には二十九日)、引き廻しの上、獄門にかけられた。享年、四十四才という。
 この稿の終わりに、麻布永坂に因んだ余談を一つ。
 永坂の坂下、坂を下りて行って左側の高台の上に三田稲荷という稲荷があった。入口は永坂に面していて高い石段を登って行くと、うっ蒼とした森を背に社祠があった。高台にあって見晴らしがよかったので、俗に高稲荷の呼稱で通っていた。稲荷の裏は石見浜田、六万千石の大名、松平十郎磨の屋敷だった。ソバの名店、永坂更科は三田稲荷の下にあった。
 三田稲荷は今はないが、永坂更科本店ビルの屋上に祀られていると聞いた。
 永坂更科のソバは当時から評判で、あの大田蜀山人も食べに行ったことがあるという。
 その時、詠んだ狂歌というのが伝わっている。
「更科のソバもよけれど高いなり(高稲荷)
  モリを眺めて二度とこんこん(来ん来ん)」
                 ———-続く———–

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