第43話 『異文化の渡来(二)、懐石料理とフランス料理』

 茶道では扇子は必需品であるが、それで扇いで涼をとったりはしない。  『茶道辞典』をみると、
「扇子 茶席では四季を通じて、客は扇子を所持する。普通の寸法とは、男女とも小形のもので、挨拶する時はこれを前におき、終って自席の後方におきその標しとする」
 とあるが、全く涼をとる為に使ってはいけない訳ではなく、別の本によると、亭主に断って使用することもあるという。
 茶の湯の料理を懐石料理と云い、その名の由来は、温石を懐にして腹を温めるという意味で、禅林風の簡素を旨とした料理で千利休によってその形が定まった、と日本風俗史学会編の『図説江戸時代食生活事典』に載っている。
 千利休の弟子の南坊宗啓が師の茶道の教えを書き残した『南方録』に、
「小座敷ノ料理汁一ツ、サイ二ツカ三ツカ、酒モカロクスベシ」(「覚書 十七」)
 とあって、専ら簡素な料理だったようだ。
 因みに、会席料理というものもあるが、本山荻舟の『飲食事典』によると、
「料理茶屋の発達に伴い、茶席・俳席ともに料亭でおこなわれるにおよんで、茶の懐石と俳の会席と字音・会音の相通・類似からして、[懐石料理]の看板を掲げるものがあらわれ、一般にはむしろ[会席]の字が多く通用する傾向となり、幕末から明治をへて現代におよんだ」
 とあって、懐石から発展して次第に贅沢な料理にと変わって行ったようだ。
 十六世紀、室町末期から戦国時代の頃の式正料理とか本膳料理とかいった本格料理は、今でも温泉場などに行くとよくあるように、御馳走を目の前に一杯に並べてその空間を食べるといったスタイルであるが、懐石料理では料理が一品ずつ出て来て時間を食べるといった形式になっている。
 高級な西洋料理のレストランでフル・コースを注文すると、料理が一品ずつ出てくる。そんなことから、袱紗捌きと同様に利休が西欧料理のスタイルを懐石にとり入れたのではないか、という人がいる。
 しかし、その頃のヨーロッパでは、一般庶民は勿論、王侯貴族まで、まだ手で料理を食べていた時代である。
 フォークをフランスへ持って行ったのは、イタリアのメディチ家からフランスのアンリ二世に婚いだカトリーヌ・ド・メディチといわれている。一五三三年のことである。
 十一世紀にベネチアの支配者の妻が二股のフォークを使って、何という贅沢、といわれたという記録があるようだが、その後、北イタリアの支配者階級の間では使用されていたものと思われる。
 四、五年前、世紀末の予言で騒がれたノストラダムスはカトリーヌと同時代の人物である。彼はカトリーヌの夫、アンリ二世の死を予言したといわれる。占星術者で医者のノストラダムスはカトリーヌの信任が厚く、彼女の子のシャルル九世の侍医となった。ノストラダムスは有名な『予言書』のほかに『化粧品・果物砂糖煮について』という本も書いているが、それには化粧品の造り方やその効能、また精力剤や栄養保健用のジャムの作り方などが載っていて、家庭衛生治療書として大好評だったという。(『フランス・ルネッサンスの人々』渡辺一夫)
 十七世紀に入り、ルイ十四世が建設したベルサイユ宮殿はヨーロッパ各国に文化的に大きな影響を及ぼしたが、料理の方にはあまり変化はなかった。フランスの料理文化が一ぺんに花開いたのはフランス革命の後で、王侯貴族お抱えの料理人達が一斉に街へ出て一般庶民向けに腕をふるうようになってからである。
 しかし、空間型の食事のスタイルは相変わらずだったようだ。
 辻静雄著の『フランス料理の手帖』という本に千八百年頃の当時のフランスの高位高官達の食卓の様子が出ているので要約すると、まず大きなテーブルに所狭しと料理が並べてある。テーブルの料理がたいらげられると第二セルヴィスといって別な料理がその空いた場所に次々と置かれる。例えば最初に出ていたポタージュが空になるとこれをさげて、その空いた場所へルルヴェと呼ばれる大皿に盛られた料理を持ってくる。ルルヴェとは、ポタージュと交代させたもの、という意味から名付けられたもので、それがすむと第三セルヴィスといって、菓子やアイスクリームなどのデザートが出てくる。
 十九世紀の初頭、ロシヤのクラーキンという駐仏大使がパリへ赴任して来た。一八〇八年頃という。
 実はロシヤにはその頃、既に時間型の食事スタイルが根付いていて、それに馴れていたクラーキンはフランスの空間型のやり方に疑問を持った。
 ロシヤ式というのがどういうものなのか、前出の『フランス料理の手帖』の「ロシヤ式サーヴィス」の所に次のようにある。
「まず出す料理の順序を決めてしまい、料理人はキッチンで食ベ頃を予想して料理をつくる。出来上がった料理はとりあえず、大皿盛りのままお客の前へ持って行って見せてから、キッチンへ持ち帰って、ここで一人分ずつ分けてから、再びお客の前へ持って行く」(要約)
 これであれば、熱い料理も冷めない内に食べられるし、一人前ずつ分けて出てくるのだから、ゆっくり食事を楽しむことが出来る。懐石料理と共通する所が多いし、正に時間型スタイルである。
 クラーキンはフランス式よりロシヤ式の方が合理的で優れていると思い、自分の周りの身内同士で食事をする時はこのロシヤ式でやったという。
 この頃、フランス人の中にもクラーキンと同じような考えを持つ者がいた。
 奇人で食通のグリモ・ド・ラ・レニエールもその一人である。
 奇人グリモには数々の伝説的な奇行のエピソードが伝わっているが、そのグリモはフランス革命の後、美食術と食料品の改良に熱中し、食味審査官制度を作ったり、『食通年鑑』などを刊行した。
 グリモは『食通年鑑』の中で、
「ひと皿ごとに料理を出す方法は洗練された生活術である。これによって熱いものをゆっくりたくさん食べることができ、ひとつの皿の料理だけに食欲を集中させることができる」
 と述べている。
 しかし、クラーキンやレニエールなどの少数の人達が、いくらロシヤ式サーヴィスのよさを喧伝したところで、一般に普及するまでには、なお半世紀近い年月が必要だった。
 ロシヤの貴族、オルロフ公は、クリミヤ戦争終結のパリ条約締結時の全権使節の一人で、またフランス料理の名稱にその名を残している程の食通だったが、彼は自分の専属シェフとして当時の著名な料理人、ユルバン・デュボワを雇い入れ、帰国する時に一緒にロシヤヘ連れて帰った。
 オルロフは一八六一年五月に亡くなったので、デュボワがパリへ戻ってきたのはその少し後のことと思うが、フランスへ帰国したデュボワは自分の料理にロシヤ式サーヴィスをとり入れた。彼のおかげで一八七〇年頃からロシヤ式サーヴィス方式が徐々に浸透して行った。後にフランス料理界の大シェフとなったエスコフィエは、一八四七年生まれで、その頃はまだ無名だったが、やがて彼をはじめとして有名なシェフ達が続々と同調してロシヤ式サーヴィスをとり入れるようになり、次第にヨーロッパ全土に広まって行った。
 しかし、これは十九世紀末のことであって、十六世紀の日本の懐石料理とは全く関係がない。
 ロシヤにしても、十六世紀にやっとロマノフ朝の時代になったばかりで、ロシヤをヨーロッパの一大強国とし、ヨーロッパ文化を盛んにとり入れ近代化を図ったピョートル大帝が生まれたのは約百年後の一六七二年である。
 これからすると、どうやら日本の懐石料理は他からの影響もなく独自で発達して出来たもののようである。
 懐石料理について調べてみると、料理の内容について書かれたものはあるが料理提供の手順について書いたものは見当たらない。
 いつだったか、西山松之助先生にお会いした時に、そのことについて書かれた文献はありませんか、とお尋ねしてみた。先生は『南方録』の校訂もしておられ、茶道にも精通されている。私の問いかけに対して、先生は首を傾げられ、「ないなァ」といわれた。
 懐石料理では、昔から一皿ずつ料理を出すことになっていて、特にそのことについて書かれたものはない、ということである。
 西山先生が御存知ないのだから、まずそういった文献はないのだろう。そうなると推測するしかないが、すぐ頭に浮かぶのは茶室の狭い空間である。狭い所に料理を一杯に並べたら身動き出来ない。空間の狭さという物理的な理由、それに又、温かいものは温かい内に、冷たい方が美味しいものは冷たくして、といった客に対する心くばりは茶の基本精神である。
 そうしたことから、今のような懐石料理のスタイルが出来上がって行ったものと思われる。
 ロシヤ式サーヴィスがいつ頃からあるのかについてはよくわからない。
 十八世紀のエカテリーナ二世は啓蒙専制君主といわれ、エルミタージュで知られるようにフランス文化に対して憧憬を持っていたと思われるが、食事については別だったようだ。
 これも推測になるが、ロシヤは寒冷地なので熱い料理を熱い内に出すといったサーヴィスの仕方が自然に培われて行き、ロシヤ式サーヴィスのスタイルが出来て行ったのかもしれない。
           —————完—————-

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