第42話 『異文化の渡来(一)、「皇帝の歌」』

 コロンブスがスペインのパロス港から新大陸発見の航海に出たのは一四九二年八月三日で、新陸地を発見して戻ってきたのは翌年の三月十五日である。
 その時、煙草と梅毒もコロンブスと一緒にヨーロッパに入って来た。
 その煙草が日本に伝来したのは、一説には天文十二年(1543)種子島へ鉄砲と共に伝わったというが、どうも元亀二年(1571)の長崎の開港以後、ポルトガルの定期船が出入りして町に居住する船員が出て来た頃ではないか、というのが通説となっている。
 梅毒の方は、コロンブスの帰港後、間もなく感染した遠征の船員から広まってバルセロナで流行した。その後、一四九四年にフランス王、シャルル八世がイタリアに侵入した際、その兵士の中に梅毒に感染していたスペインの傭兵が混じっていて、ナポリから忽ちヨーロッパ中に広まって行った。
 更に、十六世紀の初めにヨーロッパ人によって海路、広東にもたらされ、日本への伝来は永正九年(1512)で、翌年には関東まで及んだという。
 ヨーロッパへ持ち込まれてから、煙草の方は日本へ到達するまでに八十年近くかかったが、梅毒の方は二十年足らずで入って来た。
 性と結びついた、その伝染力には今更ながら驚嘆する。
 永正九年といえば、種子島へ鉄砲が伝来する三十年以上も前のことである。
 日本では梅毒のことを琉球瘡(りゅうきゅうそう)とか、唐瘡(とうそう)と呼んでいたというから、琉球や中国から入って来たと思われるが、ヨーロッパ人などがまだ日本へ来る以前に日本に入って来たのは当時、南支那海で盛んに活躍していた海賊、倭冦がもたらしたのではないかといわれている。
 面白いのは梅毒の呼稱で、ポルトガルではカスティリヤ病、イタリアではフランス病、フランスではナポリ病等々、その疫病をもたらした場所や国の名がついているのは、恨みを込めてそう呼んでいるのかもしれない。
 煙草や梅毒ばかりでなく、十六世紀の後半になると、宣教師などのヨーロッパ人の来航と共に、様々な文物やヨーロッパの文化などが、どっと日本へ入って来て、従来の日本文化に大きな影響を与える。
 例えば、茶道だが、茶道の袱紗捌きがカソリックの聖杯を扱う儀式とよく似ているということは何人かの人が指摘している。利久がカソリックの儀式を見て茶道にとり入れたのではないか、という人もいる。
 又、音楽についていえば、筝曲の六段という曲は一段五十二小節の六段から成る変奏曲形式の器楽曲で、八橋検校(やつはしけんぎょう、1614~1685)の作といわれているが、その当時、純粋の器楽曲というのも珍しい上に、変奏曲形式はそれまでの日本音楽にはなかったもので、西欧音楽の影響と考えられる。
 六段を今風にいうと、主題と五つの変奏ということになるが、『西洋音楽ふるさと行脚』(皆川達夫著)によると、十六世紀のスペインでは変奏曲をディフェレンシャスと云い、六段と同様、主題を含めて六つの変奏曲という風に呼んでいたという。
 西欧ではないが、三味線は当時琉球と呼ばれていた沖縄から永祿年間(1558~1569)に堺へ伝わったといわれている。
 元祿十六年(1703)刊の有名な『松の葉』という歌謡集の冒頭に出ている「本手」の最初に、「琉球組」という曲が載っている。「琉球組」は『松の葉』の二十年程前の貞享二年(1685)刊の『大幣』(おおぬさ)の第三巻、組歌の冒頭にも出ている古い曲だが、「琉球組」という曲名にも拘らず、歌詞は全く琉球とは無関係の内容である。
 斉藤月岑の『声曲類纂』には、
「永祿の頃、琉球国より、蛇皮を以って張たる二絃の楽器渡りしを、泉州堺の盲人中小路といふもの、これに一絃を増して三絃となし、小哥に和してこれを弾き世に弘む」
 とある。
 三味線は当初、伝来の経緯から琉球と呼ばれていたという説がある。
 そうだとすれば、「琉球組」とは三味線の組曲ということであって、その内容が琉球と無関係であってもおかしくない。
 しかし、三味線が琉球と呼ばれていたという確証(文献等)はなく、この仮説はまだ証明されていない。
 前出の『西洋音楽ふるさと行脚』には、天正の少年遣欧使節が帰国した翌年、豊臣秀吉の前で西洋音楽を演奏した話が出ている。(天正少年使節の詳細については歴史の本を見て頂きたい)
 伊東マンショをはじめとする少年使節がローマへ向けて日本を出発したのは天正十年(1582)二月である。彼等は八年後の天正十八年に帰国した。
 少年使節達が日本を立って間もなく、本能寺の変が起こり織田信長が死んで、彼等が日本へ帰国した時には秀吉の時代になっていた。
 はじめは秀吉も信長同様、キリスト教に対して好意的だったが、その頃、秀吉はキリスト教に疑惑を持ちはじめ、その考えを変えつつあった。
 少年使節達は帰国の翌年、天正十九年に秀吉に謁見して、その前で洋楽を演奏したが、それには秀吉のキリスト教に対する考えを翻させる意図があったといわれている。
 彼等が演奏したのは四重奏で、使用した楽器はアルパ(小さいハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器)、ラウテ(リュート)、レべカ(高い音のヴィオール)だった。秀吉は三度もアンコールをしたという。しかし、キリスト教に対する考えは変えなかった。
 演奏の曲目はわからないが、皆川先生はジョスカン・デ・プレ(1440~1521)のシャンソン「千々の悲しみ」(原題、Mille Regretz)ではないかといっている。「千々の悲しみ」は、神聖ローマ帝国皇帝でドイツ皇帝とスペイン王を兼ねていたカール五世が大変に好んだ曲で、別名を「カンシオン・デル・エンペラドール」(皇帝の歌)といった。
 カール五世はフランスとの攻争からローマ法王の歓心を買う為に、ルーテル等の新教を抑圧したが、一五三六年にローマを訪れた時、ヴァチカンではカール五世を歓迎するミサを取り行ない、当時ヴァチカンで活躍していたスペイン出身の作曲家、クリストバル・デ・モラレス作の「“千々の悲しみ”によるミサ曲」を演奏した。
「千々の悲しみ」は特にスペインで流行したようで、スペイン独自の楽器であるビウエラの曲の作曲者達を「ビウエリスタ」と呼んでいるが、その一人、ルイス・デ・ナルバエス(1500頃~1555頃)の「カンシオン・デル・エンペラドール」をFMで耳にしたことがある。ナルバエスのディフェレンシャスは最古の変奏曲といわれている。
 ビウエラはスペインのリュートともいわれる楽器だが、リュートというよりギターであって、当時使われていたビウエラで現存するものは皆無という幻の楽器である。パリのジャクマール・アンドレ美術館に一挺だけビウエラといわれる楽器が残っているが、異常に大きく、ビウエラであるとしても低音用の特殊なタイプではないかといわれているようだ。(『スぺイン音楽のたのしみ』浜田滋郎)
 話がちょっと横に逸れたが、カール五世の頃、スペインで「千々の悲しみ」が大変に流行していたことはわかった。
 カール五世は一五五六年に、ドイツ皇帝を弟のフェルジナンドに、スペイン王を長子のフィリップに譲って帝位を退いたが、その二年後に死んだ。スペイン王となったフィリップはフェリーペ二世と稱した。
 ポルトガルを経てローマへ行く予定だった少年使節達の渡欧中にポルトガル王が亡くなり、スペイン王がポルトガル王を兼ねることになった。
 少年使節に会ったのはフェリーペ二世で、一五八六年のことである。
 カール五世が退位してから三十年の月日が経っている。
 三十年前の流行歌がその頃まで、まだ忘れられずにいたものか、ちょっと疑問も残る。  ジョスカン・デ・プレの「千々の悲しみ」はクレマン・ジャヌカン・アンサンブル演奏のCDが出ている。「ジョスカン・デ・プレ、シャンソン集、アデュー・メ・ザムール」と云い、その中では「千々の悲しみ」という曲目は「はかりしれぬ悲しさ」となっている。
 歌に続いてリュートだけの演奏も入っているが、美しい曲である。

                        ———–この稿続く———–

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