第40話 『近江牛は旨かった』

 根津に魚善という料理屋があるが、そこでは扇子型の箸が出てくる。白木の閉じた扇子の形で、柄が箸になっていて地紙の部分にさし込んであるのを抜いて使う。なかなか洒落れたものだ。
 江戸時代の料理文化は十八世紀の半ば頃にピークに達し、数多くの料理茶屋が出現し、料理やその素材は勿論、その周辺の器や器具などにも趣向を凝らすようになる。
 江戸時代の御馳走といえば、専ら魚などの海のもので、
「日に三箱散る山吹は江戸の華」
 と川柳にあるが、箱とは千両箱で、江戸では日々三千両の金が消費されたと云い、その山吹の散る先は魚河岸と芝居町と吉原で、夫々千両、計三千両という訳である。
 同様の句に、
「日に三箱鼻の上下臍の下」
 というのがあるが、鼻の上下とは目と口で、芝居は見るもので目、魚河岸の魚は食べるもので口、臍の下はいうまでもなく吉原のことを指している。
 肉類は鳥肉以外、ほとんど食べなかったように思われがちだが、獣肉が栄養豊富で体力回復や所謂、精をつけるのに効果があることは江戸人も知っていて、薬食いと稱して食していた。
 斉藤彦麿の『神代余波』に、
「明和、安永の頃(1764~1780)は、猪鹿の類を喰ふ人稀也、下ざまのいやしき人も、ひそかに喰ひて、人にはいはず、かたみに恥あへりき、天明、寛政の頃(1781~1800)より、ややよろしき人もかつかつくふ事となりて、今は自慢としてほこれり」
 とある。猪鹿の類とあるのは、猪鹿に限らず獣類一般を指していて、豚などもよく食べられていたようである。紀州藩江戸勤番の下級武士、酒井伴四郎という者の日記が残っているが、それを見ると、豚を買って来て食べている。
 馬や牛なども結構食していたようだ。牛などは明治になってからと思っていたが、そうではなかった。『確定幕末史資料大成』(日本シェル出版、昭和五十一年刊)に、桜田門の変を描いた板画が載っているが、朱青墨だけの一枚絵で、事件後十日目に早刷りで出されたものという。
 画面は桜田門外の乱闘だが、中央に牛の首が描いてあり、絵の右端に大きく、
「安政七庚申三月三日江都
        桜田門牛騒動之図」
 左端下側に三行、「モウ御免と桜田門」「食べ物の恨み恐ろし雪の朝」「大老が牛の代わりに首切られ」とある。

 この八月、『せんすのある話』の三十一回分をまとめて出版した、その第十章、「江戸の扇屋」(二)の中で、桜田門の変を「万延と改元早々のこと」と書いたが、作家の吉村昭さんから、「あれは、まだ安政七年のことだよ」と指摘された。吉村さんには『桜田門外の変』という作品(小説)がある。全くその通りで、改元になったのは三月十八日である。お詫びして、前出の文に「早々」とあるのを「直前」と訂正させて頂く。
 改元は京都朝廷の重要決定事で、三月十八日に万延と改元になった知らせが江戸に届いたのは、翌月の閏三月朔日だった。
 同日の『続徳川実紀』に、
「此度年號改元。京都ヨリ被仰進候ニ付。萬延與被仰出候段。月次出仕之面々江中務大輔演達之」
 中務大輔とは老中、脇坂安宅(わきさかやすおり)のことで、安宅は有名な脇坂安董の息である。
 話を桜田門の変の板画に戻すが、右端の日付けが安政七年となっている。
 牛と桜田門事件がどう関係しているのかというと、実は、水戸藩主の徳川斉昭は肺を患っていて、牛肉をスープにしたり、鍬の鉄板の上で焼いて、つまりスキヤキにしたりして、薬食いしていた。
 斉昭は近江牛を好み、井伊家から生肉十貫匁と味噌漬十貫匁を毎年、海路で那河湊へ送って貰い、その返礼として、小梅の塩漬百樽を帰り船に持たせてやっていたのだが、直弼が斉昭との確執から、大老になると、領内で牛馬の屠殺を禁じた、といってそれを断ってきた。止むなく斉昭は他国の牛肉を集めさせて食べてみたが、近江牛には及ばなかった。そこで、何とか従来通りに、と再三使者をやって頼んでみたが、直弼はガンとして応じなかった。遂には斉昭本人が江戸城で直弼に直接懇願したが、「鍬で焼いて食するとは、とんだスキもの」と、すげなく面と向かって罵しるようにいわれたという。
 そうした、主君の面子を踏みにじった直弼に対する家来だった水戸浪士達の復讐が桜田門の変というのが板画の書き入れの主旨である。
 しかし、桜田門の変が勤皇憂国の美挙ではなく、単なる食べ物の恨みから起った死闘とは何とも皮肉な話だ
 桜田門の変に加わッたメンバーの中に一人、有村次左衛門という元薩摩藩士が交じっていたことから、桜田門の変を美挙とする薩摩製歴史が作られたという説がある。
 幕府は大老暗殺という不名誉な事件を隠蔽しようとして、それに関する書物や前出の板画のようなものまで回収抹殺に躍起となったと思われるが、それが明治になってからも続いた。というのは、明治になって警視庁を創設した川路利良は、有村次左衛門の縁者で、桜田門の変を勤皇の美挙とする為に、それに反する書物などを徹底的に捜査して回収廃棄したからである。水戸浪士の遺族達にも、
「(桜田門の変を)勤皇の美挙としなければ、追贈位がやれない。となると、
年金や恩給も遺族に渡したくても出来ない」
 といっていたという。
 これが現在の桜田門事件を勤皇の美挙とする通説を薩摩製の歴史という所以である。
 桜田門の事件の動機についてはいくつかの説があり、牛肉怨恨説もその一つだが、歴史的評価の難しいことがよくわかる。
 牛騒動の板画は、名古屋の江戸研究家、尾崎久弥氏旧蔵のもので、前記のような官憲の捜査の手を免れて残ったものである。
 桜田門の変が牛肉の恨みから起ったというのは、いかにも荒唐無稽に聞こえるが、『水戸藩党争始末』(筆者未見)という書にも同様の記述があり、満更根も葉もない話ではなさそうだ。
 桜田門の事件当時、江戸には既に二十数人の牛肉商人がおり、事件によって、大老が命を落とすほど牛肉が美味しいもの、という評判が広がり牛肉屋が繁昌し出したので、幕府は困惑して、神奈川横浜が開港になった(安政六年)のをしおに、そちらへ移住して営業するよう指示したという。
 やはり尾崎久弥氏旧蔵の仙台藩士、玉蟲左太夫の『桜田騒動記』の中に「落とし文の写」として、「せっかく牛肉が売れ出して景気がよくなって来たのに、なんで所払いのように新開地の横浜へ移住しなければならないのか」
といった肉屋の抗議文が出ている。
 歴史上の解釈は別にしても、牛肉の旨さは桜田門事件を機に江戸の庶民の間に急速に浸透して行ったようだ。中でも近江牛は一番のブランドだったというところか。

(追記)
 八月に出版した『扇子のある話』の中に、吉村さんから指摘を受けたような間違いが他にもないかと調べてみたが、発見出来なかった。しかし、説明不足で誤解を受けそうなところが何ケ所かあったので、簡単に補足しておくことにした。
 一、第十九章、重ね扇(一)  二代目尾上菊五郎は『名人忌辰録』によれば、明和八年生まれで天明七年に十九才で死んだ、とあるが、十九才というのは計算違いで、十七才でないとおかしい。又、天明七年に十九才で亡くなったとすると、明和六年の生まれとなる。
 二、第二十章、重ね扇(二)  脇坂安董の享年は『名人忌辰録』には六十余とあるだけだったので、三省堂の『日本人名辞典』によったが、七十四才という説もある。
 三、第二十二章半太夫節(一)  菊岡沾凉の『世事談綺』には、元祖河東の生家を小田原町の酒屋としているが、『声曲類纂』には元祖河東の失われた墓碑の文というのが載っていて、それには「品川坊之豪家」とあり、品川町としている。江戸時代の魚河岸は、本船町、本小田原町、安針町、長浜町、伊勢町、瀬戸物町、品川町を俗に魚河岸七町といった。
 本小田原町も品川町も共に魚河岸七町の内ではある。
 四、第二十八章、河東節(一)  [これは補足ではないが, 参考までに] 一中節の四代目菅野序遊が「江戸紫」を作曲するにあたって、田中のお糸という者から半太夫節を習ったといわれているが、そのお糸というのは河竹黙阿弥の娘だという話を聞いたので調べてみた。『名人お静の咄』(河竹絲記とあるが、同女の話を養子の河竹繁俊氏がまとめたものと思われる)によると、同女は初め富本を習っていて、文久三年、十四才の時に一中節の名人お静(宇治倭文)の許に入門した。逆算すると、同女は嘉永三年生まれで、「江戸紫」開曲の安政四年、まだ八才の子供で、しかも半太夫節は習っていない。田中のお糸の身許が知れたかと期待したが、とんだお糸違いだった.

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