第41話 『御能拝見と角屋敷』

 江戸城の正月については、三田村鳶魚編の『江戸年中行事』の中の『江戸惣鹿子』(元禄三年版、1690)に、

 正月朔日 御一門方御礼。
 二日 国主、城主、諸役人。
   此日、大中納言、参議、中将、侍従、四品、五位之諸太夫迄、衣服弐領
宛下し給ふ、或ひは台、或は広蓋にて拝領。
 三日 諸太夫子息方、同日 京都、大坂、奈良、堺、伏見、淀、江戸町人。
   同夜に入御謡初、酉刻大広間へ出御、御譜代大名、四座猿楽板縁に並居、     老松、東北、高砂以上三番、小謡時々うたふ、此の日観世太夫、諸大名かたぎぬを下され候由こうれい也、其の夜は大手下馬、乗物下馬、篝火たく。

 とある。東京都刊の『重宝録』という本に「御能之節被下御銭并御年頭二上候名主角屋鋪之者献上品共」と朱書がある文書が出ている。
 御能之節というのは御能拝見の節のことで、光風社選書の『江戸』(川崎房五郎著)に「江戸の[古町]の町々と御能拝見」という章があって、かなり委しく書いてあるが、その初めに古町(こちょう)について、岡本綺堂の『江戸の町人』から次のような文を引用している。
「江戸の町人の中でも古町町人という者は大に巾が利いたそうで、これは徳川の初代二代に掛けて移住した者で、江戸市中に五千人ぐらいはいたと云われていた。(中略)古町町人はいろいろの特権を与えられて特殊の扱いを受けていた。また古町の中でも角屋敷に住んでいる町人を、俗に御目見(おめみえ)屋敷といって、年賀、将軍家の婚礼、誕生というような御慶事の時には、将軍に拝顔をゆるされていた」

 更に、『江戸』によると、古町の町々の権威は大変なもので、寛永ごろから江戸城内で能楽が催される時、拝観を許される特権があった。これは寛永十一年(1634)、徳川家光が京都へ上洛した折、人心の懐柔策として京都の市民に銀貨を支給して大いに喜ばれたので、江戸へ戻ってから江戸の市民にも銀五千貫を配った。寛永十一年九月のことである。又、この賜銀と同じ年の2月に御能拝観を許されたのが先例となり、当時の江戸市民、すなわち古町町人の特権となったようだ。
 もっとも、呼ばれて御能拝観を許される市民は大体名主のほか、五人組の家主、それに書役の町役人たちで、幕末の記録では、凡そ二千人ぐらいの人数だったという。

 岡本綺堂の引用文の中にも角屋敷のことが出て来たが、一つの辻に角屋敷は四軒ある。その四軒が全部御目見屋敷と呼ばれる特権を持つ角屋敷かというと、そうではない。  角屋鋪は角屋敷と同じことなので、文書の内容以外は普通に角屋敷と書くことにする。
 『近世江都著聞集』の巻三「新材木町白木屋お熊仇名の弁」に、
「新材木町に、年久しく富有に世を送りける白木屋正三郎とて、家持、角屋敷の主にて、世に知るもの多かりき」
 正三郎は、「恋娘昔八丈」の白木屋お熊の父親である。
 三田村鳶魚は『芝居と史実』の「恋娘昔八丈」のところで、
「角屋敷ならば四つありそうなものだけれども、そうではない。江戸城から見て右の角に限る稱えであるから、十字街でも、角屋敷は一個所しかないのである。『旧記拾葉集』に、「御城御年頭に上り候節名主、角屋敷町人献上物之儀、今度減少被仰付候間、寅二月三日より名主、角屋敷町人共に御扇子三本入献上仕候」と延享二丑年(1745)の達しにある。享保の後、元文・寛保を経て延享に至り、献上物減少を命じたのを見ると、町人どもが過分な献上物をしたとみえる。何にせよ江戸の古格として、角屋敷町人は柳営へ年頭の御礼をなし得る栄誉を有するものであった」
 といっている。又、『江戸時代用語考証事典』(池田正一郎著)には、
「江戸にて十字路の角の一方にあり、江戸城に向かい合っている屋敷であるので、一つの十字路に一つしかない。「明三日、御城え御年頭に上り候面々さかやき仕、麻上下を着、明六ツ前大手大腰懸迄可被相詰候。縦雨降候共無遅々可罷出候。旧冬申上候名主併角屋敷の外、壱人も罷出申間敷候」(享保六年正月)。享保六年(1721)十二月に、翌年正月三日の名主、角屋敷の献上物を示す。各扇子三本入一箱ずつで、これを扇子台に載せ、台には「御扇子三本入、何町名主誰」、同じく「何町角屋敷誰」と書いた紙札をつける。(以上、御触書寛保集成)」
 とある。以上で大体、『重宝録』の「御能之節被下御銭并御年頭ニ上候名主角屋鋪之者献上品共」と朱書が付いた文書の内容を紹介するお膳立てが揃った。
 この文書には日付がないので、いつのものか特定出来ない。ただ、「御本丸、西丸 御同様 横目録」と書いてあるところがあるので、家斉隠居後から亡くなるまでの天保八年(1837)から十二年の間と思われる。
 又、「御能之節——」に続いて「御年頭ニ上候———」とあるので、この御能が御謡初の御能を指しているのか、全く別な日の演能をいっているのか、わからない。御能之節というのは、御能拝見の節ということだから、その時に古町の者に銭を賜わったということである。初めは銀を与えていたものが、幕府の財政事情もあって、いつ銭に代わったのかわからないが、ここでは既に銭になっている。

 御能節町中江被下候銭割渡高
  一銭拾三貫文    本町壱町目
   ———      ——(町名)——-
    ———-(中略)———-
   ———      ——(町名)——-
  一同百五貫文    新吉原五丁分
    合銭五千五百十八貫文
     内
    ———-(中略)———-
   三百拾六貫文  町々月行事
            三百十六人江被下
   百五貫文    新吉原町江被下
    右弐口ハ御能拝見江者不罷出候得共被下
 五口
  金五千五百拾八貫文
   前々ヨリ被下町々先例也
   拝見当日御菓子御酒傘被下
 「御本丸  御同様  横目録

  西丸  御同様     」
   献上
    御扇子 五本入  喜多村彦右衛門
    熨 斗 三 把
    御扇子 五本入  奈良屋市右衛門
    熨 斗 三 把
    御扇子 五本入  樽 吉五郎
    熨 斗 三 把
     以上
 (この三名は江戸町年寄である)
 「右同断  竪目録」
   献上
    御樽  拾
    熨斗  百把
            江戸惣町中

 正月三日御年頭御礼ニ上り候
 町中名主并角屋鋪之者覚
 一扇子三本入ツツ  本町四丁目名主
           ——(町名)名主
    ——(中略)——
           ——(町名)名主
           深川中嶋町名主
  〆百七人
   但、草創名主之内鉄砲町鎌五郎佐柄木町鉄次郎ハ
     外御用ニ付き今日不罷出候、

 一御扇子三本入ツツ  大伝馬町二丁目角屋鋪
            ——(町名)同
    ——(中略)——
            ——(町名)同
            竜閑町同
  〆三拾八人   角屋鋪
   但、忌服等ニ而不出分并女名前之節ハ相除候ニ付、
     年々増減有之候、
  名主角屋鋪町人
    合百四拾三人
 右之外
 一白綸子 弐拾巻   京糸年寄
                  壱人
            堺糸年寄
                  壱人
            大坂糸年寄
                  壱人
            長崎糸年寄
                  壱人
            大坂惣代
            江戸糸割符惣代
  以上

 以上が『重宝録』の「御能之節—–」の文書である。献上品の扇子三本入など、前に引用した鳶魚の文や『江戸時代用語考証事典』にある通りである。
 最後に御能拝見の模様についてだが、鳶魚は次のように書いている。
「御能見物の登城、これは諸大名に拝見仰付けられる。この時変った事と申すのは、諸役人も出ておりますが、町の者が一町に幾人という割で、舞台の下の砂利の上に坐って、拝見仰せつけられる。将軍家の出御以前から、入御になるまで、坐っていなければならんのですから、難儀なものと思います。それからこの日に限って、町奉行の批判をする。悪口することを許されている。これは将軍家が下情を御存知なさるという意味であろうと存じます」
 能が演じられるのは江戸城大広間の舞台で、町人達の観覧席はその前方野外の砂利を敷いたお白州のよう場所だった。その為に、万一の天候に備えて傘を一本ずつ渡すことになっていた。
 御能拝見を許される町人達は、表向きは町々を代表する名主、家主などだったが、実際はその代理として一般の町人が出ていたという。その訳は、名主や家主などの老人には、鳶魚が書いているように体力的に難儀な上、人込みに巻き込まれて怪我する恐れもあって、代理人を代わりに行かせたようだ。
 前出の『江戸』では『同方会誌 三十三号』記載の内容を要約しているが、それによると、それら代理の町人達はわざと異様な風俗姿で出かけて行って、真面目な恰好で来る者は少なかったとある。
 とにかく、この日は無礼講で、町奉行に「親方御苦労」などと声をかけたり、役人の不正を大声でどなったり、役人達の肝を冷やすようなことを訴えたり、日頃の不平不満を公然とぶちまけたりした。こうした町人達の想像も付かないパフォーマンスにも、目付の役人達は、ただ、シーッというだけで、この日ばかりは厳重に取り締まったり、処罰することもなかったという。
 下意上達の唯一というべき機会だったと『江戸』に出ている。

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