第3話 『荻江露友』(おぎえろゆう)

恋川春町の黄表紙『吉原大通会』

恋川春町の黄表紙『吉原大通会』(よしわらだいつうえ)の挿画の一部分
図は恋川春町の黄表紙『吉原大通会』(よしわらだいつうえ)の挿画の一部分である。

画も春町で、作中、吉原の遊女、八重桜の部屋で、客の蝶四大尽が作詞した『九月がや』というメリヤス(ごく短い長唄の独吟物。手ほどき曲の『宵は待ち』とか、『黒髪』などがそれ)を「そのころ名高き先生」のおうぎ江西林が披露しているところである。

立て膝をして右手に扇を持ち左手で左の耳のあたりを押さえて唄っているのが、おうぎ江西林である。

『大通会』(以下、略して『大通会』という)は楽屋落ちを多く含んだ作品で、作中の人物の名前は実在の人名をもじってつけられている。


『大通会』

おうぎ江西林は荻江泰琳で、荻江節の祖の初代の荻江露友である。(露友については後述) 蝶四大尽は佐藤朝四で、秋田藩佐竹家の江戸留守居役、佐藤祐英のことで、祐英は俳名を朝四とも晩得ともいった。

『大通会』の主人公のすき成は、朝四と同じく佐竹家の家臣で、朝四の後任として江戸留守居役に なった(天明三年五月)俳名を月成といった平澤常富で、彼は狂歌名を手柄岡持といい、黄表紙の作者としては朋誠堂喜三二というペンネ-ムを持つ。

『大通会』の刊行は天明四年で、前年に、それまでの留守居助役から本役に昇進した常富を祝って 書かれたものともいわれている。

朝四作詞の『九月がや』の披露は実際にあったことで、場所は吉原江戸町一丁目のまつかねやの遊女、九重の座敷で『大通会』に書かれているように荻江露友によって行われた。

その時、その座敷にいた者が知人にその場の様子を知らせる為に書いた、露友の姿のマンガ的なスケッチ入りの断簡が残っていて、それと福地桜痴(源一郎)の手紙や津藤(今紀文といわれた細木香 以、森鴎外に同名の作品がある)の短冊などを貼りまぜにした屏風がある。

旧高野班山(辰之)氏蔵で、その後英十三氏の所有になっていたもので、昭和二十九年十月の三越での近世邦楽文化展に出品されていたのを見たことがある。貼りまぜ屏風にある露友のスケッチは『大通会』の露友と同じ恰好をしている。


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荻江露友

荻江露友は明和三年十一月から明和五年八月迄の一年九ヶ月、市村座へ出演したのみで舞台を退き、吉原へ引っ込んで剃髪して泰琳といった。吉原では客の求めに応じて座敷で唄を聞かせていたらしい(『鹿の子餅』)。

又『九月がや』のようにメリヤスの作曲も手がけていたようだ。柳澤吉保の孫で大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻(のぶとき)の『宴遊・清鶴日記』に、信鴻が作詞したメリヤス『 賓頭盧』(びんずる)を知り合いの吉原の男芸者こんぱる平吉を通じて、露友に作曲を依頼したこと が書いてある。(天明七年一月)メリヤス『賓頭盧』はかなり流行ったようである。

露友について、喜三二の平澤常富は、前回も引用したように、

「楓江(富士田吉治)に及ばず」

といっているが、三升屋二三治は『戯場書留』の長唄の項で、

「荻江露友は楓江には及ばずとも、荻江風といふを世に弘しは、なかなかおよぶところにあらず、今も猶、荻江風多くありて、人知るところなり」

と記している。 


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扇の持ち方

さて、露友の唄う姿だが、左手で左耳のあたりを押さえているのはどういうことなのだろう。亡くなった鶴田浩二がテレビで、手を耳の後ろにあてて歌っているのを見たことがある。音を確かめながら歌っていたのだろう。露友もそうしているのかもしれないが、立て膝といい、何ともお行儀が悪い。それに、扇の持ち方も変わっている。

邦楽では、唄い手が唄う時、正座して右手で扇を持つのは共通しているが、普通要(かなめ)の部分を持って、男は反対側の紙の貼ってある方の端を床につけて唄い、女は扇を膝の上に横に載せて唄う。能楽でも素謡の場合は同じだが、膝の上へ載せる女型はない。

ただ、能の地謡は要の方を床につけ、扇の中央部を右手で握って扇を立てて謡う。露友の扇の持ち方は能の地謡の場合に近いが、握る場所が全く違う。立てるようにした扇の頂上部分を縦に掴んで押さえている。

『大通会』の挿画の露友のような恰好は他に見たことがない。そんなことから、貼りまぜ屏風の断簡の書き手もその露友珍しいの姿をスケッチしたのだろう。

邦楽の唄い手の扇の持ち方の変遷についてはよく知らない。歌舞伎を描いた画は沢山あるが、地方 (じかた)まで描いてある画は少ない。

清長の『天網島』の画(富本節、天明四年、1784年)や国貞の『優平家後段景亊』の画(清元節、天保三年、1832年)には背景に夫々二人の太夫が描かれているが、いずれも今日、女性がするように扇を膝の上に載せて唄っている。明治三十年の安達吟光画の『大江戸しばい、ねんじゅうぎょうじ』の中に出てくる唄い手(長唄か)も扇の持ち方は同じく女型である。

こうしてみると、扇の持ち方が今のように男型になったのは案外、新しいのかもしれない。

最後になったが、恋川春町は駿河小島(おじま)藩士で、本名は倉橋寿平、狂歌名は酒上不埒、小石川春日町に住んでいたので恋川春町といった。春町の黄表紙『金々先生栄花夢』は絵草紙を初めて大人の読み物にした画期的な作品で、黄表紙の祖といわれている。

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(終)

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