第39話 『京都 金福寺』

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
見る人ぞなき

雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてて住にき

へげ(変化)のけぶりのはと打(うち)ちれば西吹風の
はげしくて小竹原(おざさはら)真すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてて住にきけふは
ほろろともなかぬ

君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる

我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
花もまゐらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたふとき

 この詩を初めて目にした者は皆、同じような印象を受け、作者を知って一様に驚くに違いない。そう思って、わざと作者名を伏せておいた。
 この詩について、萩原朔太郎は、
「この詩の作者の名をかくして、明治時代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」
 と書いている。
 この近代詩と見紛う詩の作者は、与謝蕪村である。
 この詩の題名は「北寿老仙をいたむ」と云い、蕪村と親交のあった、下総結城本郷の俳人、早見晋我が亡くなった時、蕪村が詠んだ挽詩である。北寿とは晋我の隠居後の号という。
 更に、朔太郎は続けて、
「しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新体詩の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである」(以上、萩原朔太郎『郷愁の詩人 与謝蕪村』)
「蕪村はこれを「俳体詩」と名づけているが、まさしくこれらは明治の新体詩の先駆である。明治の新体詩というものも、藤村時代の成果を結ぶまでに長い時日がかかっており、初期のものは全く幼稚で見るに耐えないものであった。百数十年も昔に作った蕪村の詩が、明治の新体詩より遥かに芸術的に高級で、かつ西欧詩に近くハイカラであったということは、日本の文化史上における一皮肉と言わねばならない」(萩原朔太郎『春風馬堤曲』)

蕪村は享保元年(1716)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~1735)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。
 寛保二年(1742)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。
 北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。
 晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(1745)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(1793)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」
 と付記があるという。
 この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。
 蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(1777)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。
「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を「友」と遇し「君」と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)
 時に蕪村、六十二才である。
 しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。
 なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。
 蕪村のもう一篇の俳詩、「澱河歌」は、もと扇面自画賛に認められたもので、前書に、
「遊伏見百花楼、送帰浪花人、代妓」
 とあり、二首の漢詩に続けて、

 君は水上の梅のごとし花水に
 浮て去(さる)こと急(すみやカ)也
 妾は江頭の柳のごとし影水に
 沈てしたがふことあたはず

 妓に代わり、とあるように、妓の気持になって詠んだものだが、蕪村にしては珍しく色気を感じさせる文句である。
 蕪村は私生活では宝暦十年(1760)頃に結婚し(その時、蕪村四十五才)、くのという娘があったというが、萩原朔太郎が、
「蕪村の性愛生活については、一も史に伝ったところがない」(『春風馬堤曲』)
 といっている通り、蕪村の周囲に女性の影はほとんど感じられない。
 『蕪村遺稿』の中に、次のような句を見つけた。
「目にうれし恋君の扇真白なる」
 安永三年、蕪村五十九才の時の句である。
 しかし、この「恋君」という言葉にも、それ程深い意味はなさそうだ。『蕪村遺稿』は、自撰の『蕪村句集』の選び残しという説があり、秀句が少ないといわれているようだが、真っ白な扇を手に持って涼をとる恋君と呼ぶ女性の涼やかで楚々とした姿が目に浮かぶ此の句は、俳句については全くの素人の筆者には、なかなかの句に映る。
 蕪村は、天明三年(1783)十二月二十五日に死んだ。享年、六十八才。
 蕪村の墓は、京都洛北、詩仙堂近くの金福寺にある。
 金福寺は、井伊直弼の愛妾で、『花の生涯』(舟橋聖一著)という小説のヒロイン、村山たか女が晩年を過ごした寺として有名である。
 蕪村は安永五年(1776)、金福寺境内に芭蕉庵を再興することを企て、五年後の天明元年五月に実現させる。蕪村は此処を自分の墓所と決め、「我も死して碑の辺りせむ枯尾花」と詠んだ。
 その芭蕉庵再興の経緯については、蕪村の『洛東芭蕉庵再興ノ記』に委しい。
 同記に、「階前より翠微に入ること二十歩、一塊の丘あり」とある、金福寺の裏山を登って行くと、中腹に芭蕉庵が建っているが、蕪村が再興したままの建物ではないような、新しい感じがする。その脇を更に上がって行くと、頂上の木立の間にいくつかの墓石にまじって蕪村の墓がある。
 筆者が訪れたのは冬だったせいか、何となく、すべてが殺風景で、『再興ノ記』に、
「もとより閑寂玄隠の地にして、緑苔やや百年の人跡をうづむといへども、幽篁なほ一炉の茶煙をふくむがごとし。水行き雲とどまり、樹老い鳥睡りてしきりに懐古の情に堪ず」
 とあるような、往時の面影を偲ぶよすがは見当たらなかった。
 蕪村の辞世の句は、
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」
 だというが、ここにも、白い色が出てくる。恋君の扇の白と云い、蕪村には白がよく合うようだ。  

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