第38話 『清元「梅の春」(三)、川口お直』

「梅の春」の唄い出しの文句だが、「四方にめぐる」では勿論、四方派の姓の四方を掛けていっている。次の「扇巴」とは図のような四方真顔の印章のことだが、蜀山人の天明四年(1784)の『巴人集』の序に、「四方の家の紋、扇に三巴なり」として、図と同じ扇の地紙に三ツ巴の印章を押しているので、真顔に印というより四方の印というべきかもしれない。真顔が四方の名を譲られた時に印章も同時に引き継いだのだろう。(印影が違うので印そのものは同じではない)
四方真顔の印章
 文車とは、車がついている牛車の形に作った書棚のことで、移動出来るようになっている。
「心ばかりは春霞、ひくも恥ずかし」では、心をはる、霞をひく、といった縁語が並んでいる。
「爪じるし」とは、爪で標をつけることで、判者が選歌の際にこれという歌に爪で標をつけておくことをいったのだと思われるが、清元の詞章を解釈した本には、「ひく」という縁語から、三絃と点式になぞらえたものとしてある。点式とは、狂歌の巧拙を批評して墨を引き印章を押すことだというが、爪じるしとは爪で標をつけることで印章を押すことではないので、やや牽強付会な感じがしないでもない。

 爪印というのがあるが、これは江戸時代、印判を持たない女性などが印章の代わりに押したものである。今日では爪印というと拇印と同じものと錯覚する人が多いと思うが、爪印は指先に印肉や墨をつけて爪先を円弧の形に押したもので、拇印のように指の腹は使わない。指は親指で、男は左、女は右の親指を用いることになっていたという。
 この冒頭の文句からもわかるように、「梅の春」の文章は縁語などを自由自在に使いこなした洒落れたもので、あまりにも見事な出来栄えに、作詞者は毛利元義本人ではなく、四方真顔の代作ではないかともいわれている。又、五代目清元延寿太夫の『延寿芸談』では、「北州」と同様、蜀山人の作としている。「梅の春」の作曲者は、「北州」とともに川口お直といわれている。  

 お直については何度も触れて来たので書き洩らしたことのみ追記しておく。
 お直の没年は弘化二年(1845)とわかっているが、享年は不明である。有名な『清元研究』(忍頂寺務)では、「北州」が出来たのを文政元年(1818)として、その時お直は四十三才と推定している。それからすると、お直の享年は七十才となる。
 前出の『延寿芸談』には「川口なほさん」という項があって、お直に関する逸話などが載っているが、その中に、お直が天保七年(1836)九月、向島の土手に楓樹を数百株植えたことを記した碑が向島白髭神社に建っているとして、館柳湾撰というその碑文を挙げている。
それは、
「石浜酒楼主娼。姓川口氏。名那保。本北里有名歌娼。今年六十余。猶結束清楚。善接賓客。而気宇豪爽。絶無狭斜軽薄之風。植楓之費。私財弁之。或有資之者。力辞不受。是在髭眉丈夫猶不易輙得。況於巾幗女子乎。可謂淤泥生蓮花也」

 館柳湾は詩人で、『名人忌辰録』には、
「本姓小山氏名機字樞卿又號古錐子通稱雄二郎越後の人後幕府の徒士と成る詩を以って鳴る弘化元辰年四月十三日没す歳八十三(以下畧)」
 とある。館柳湾の詩を好んだ永井荷風は『葷斎随筆』に館柳湾について経歴など委しく書いているが、それによると、郡代の属吏として飛騨高山、羽前金山の鉱山に祗役したという。
 碑文に「今年六十余」とあることから、『延寿芸談』では、それを六十として享年を六十八才と推測しているが、これは計算違いで天保七年に六十才とすると弘化二年には六十九才になる。しかし、碑文にある「六十余」の余という字が気になる。ニュアンスからいえば、六十丁度ではなく、六十を僅かに越えたという感じがする。仮に、六十一とすると、お直の享年は七十になり、前出の『清元研究』の推定年令と一致する。
 過日、白髭神社に行ってその碑を探したが、既に失われてしまったものか、見つけることが出来なかった。社務所で尋ねたが、わからなかった。

 明治時代に、当時の文士や役者、芸人など各界の重立った人物とのインタビューを集めた『唾玉集』という本が出ているが、その中に、五代目延寿太夫とその養父母、延寿翁(四代目延寿太夫)と妻女のお葉の三人との対談が載っている。
 インタビュアは伊原青々園(1870~1941)で、明治三十三年のことという。
『唾玉集』の中で五代目延寿太夫が、
「此の流儀で最も大切に致しまするは先づ「梅の春」と「北州」で、これが語れなきゃ太夫でないと思ふ純粋の清元です」
 といっている。「梅の春」という曲がいかに清元の中で重要視されているかがわかる。
 しかも、「梅の春」、「北州」の二曲はいずれも川口お直の作曲なのである。
 清元には、お直をはじめとして、秀れた女性の作曲者が多い。

 初代延寿太夫の後妻のお悦、鼻が高かったことから天狗という渾名だったというお悦は、初めは常磐津の者だったというが、初期の清元の作曲に貢献することが大きかったという。清元が富本と違って女性的な節回しだといわれたのは、このお悦の節付けに因るのかもしれない。
 それから二代目延寿太夫の妻のお磯、地は長唄で、雲州松江の殿様、松平治郷不昧公の奥に勤めていたという。
 不昧公の父、宗衍公は富本の後援者だったが、不昧公は清元贔屓だった。
 二代目延寿太夫は初代延寿太夫の子で巳三次郎といったが、文化十三年(1816)、十五才の時に不昧公の御前で元服して、栄寿太夫という名を与えられた。初代延寿太夫が横死した時、栄寿太夫は二十四才だったが、父の死の翌日から中村座に出勤したという。二代目延寿太夫となったのは文政十年(1827)三月である。
 この二代目延寿太夫は大変な美声で、この延寿太夫から清元の語り口が一変したと『唾玉集』にある。
 又、同書に、
「延寿太夫(五代目)は暫く口をとぢて、お葉自身の作譜談これより始まる」として、
「妾(お葉)がその初めて作をしたてえ話を言ひませう、何しろ十六の時太兵衛(おやじ)に別れて、それから母の磯が専ら節付をして居ましたが、漸う十七から妾も母と合作をすることになって、劇場の浄瑠璃は全て二人で付けました」
 太兵衛というのは二代目延寿太夫で、二代目は弘化二年(1845)冬に清元太兵衛と改名した。お葉はその太兵衛の娘である。

 清元「卯の花」はお磯の作と伝えられている。
 この後、お葉が十六の時、「散るは浮き——-」という不昧公作の詩章に初めて節付けした話や又、十八の折、「あの花が——–」という小唄を作曲した話などが語られている。「散るは浮き」と「あの花が」の小唄は今も広く唄われている。
 名人太兵衛といわれた二代目延寿太夫には、娘のお葉の他に、兄になる秀次郎という子があったと『延寿芸談』にあるが、この秀次郎が何故三代目を継がなかったのかは書いていないのでわからない。三代目は浅草今戸の材木屋、藤田屋の倅の繁次郎という者が養子に入って弘化二年に三代目延寿太夫を襲名したが、生来の割れ声で悪声だった。(『延寿芸談』)
 繁次郎は持参金付きで養子に入ったともいわれているが、その前に、二代目延寿太夫は三升屋二三治の次男の捨吉を養子として二代目栄寿太夫を名乗らせている。

 二三治については、この「せんすのある話」に度々登場して、その著書を引用したり、又その経歴についても書いて来たが、『名人忌辰録』の中で関根只誠は、「二三治の素性知る人稀なれば言長けれど記す」として、かなりのスペースを割いて委しく述べている。
 その中に捨吉のことも出ている。
 二代目栄寿太夫となった捨吉は嘉永の初めにどういう訳か、離縁となって、名を永寿と改めて清元の稽古を業とした。父親の二三治は晩年零落して永寿の家に同居したが、嘉永四年(1851)、永寿に先立たれ、二三治はその五年後の安政三年、七十二才で世を去った。
 寂しい晩年だった。

 四代目延寿太夫は『唾玉集』に延寿翁として出ているお葉の夫で、河竹黙阿弥と組んで数々の名曲を残した人である。最もその蔭にはお葉の力が大いにあったことは確かである。
 明治、大正、昭和にかけて、一世を風靡した五代目延寿太夫(1862~1943)についてはよく知られているので、書くまでもないだろう。
                ——-終わり——–

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