第37話 『清元「梅の春」(二)、清元節』

常磐津、清元、新内、宮薗節などを総稱して豊後系浄瑠璃というのは、これらがいずれも豊後節から分かれたものだからである。
 豊後節の祖は宮古路豊後掾と云い、『声曲類纂』には、
「都一中が門人にして、始は都国太夫半中と號し、後に宮古路国太夫と改め、一中節を変化せしめ一流を語り出し、享保三年戌十一月大坂竹本座に於て始て芝居を勤む。夫よりこのかた国太夫節とて諸国に聞ゆ」
 とある。同書には、その後、享保の末に江戸へ下り宮古路豊後掾と改めた、とあるが、豊後掾を受領したのは江戸へ下る前の享保十四年(1729)頃のことという。豊後掾が江戸へ出て来たのは確かだが、その時期については諸説あって定め難い。とにかくそれは享保の末だったようだ。

 豊後節は忽ち江戸で大流行をみる。
 太宰春台が『独語』に、
「江戸の男女淫奔すること数を知らず、元文の年に及びては、士太夫の族はいふに及ばず、貴き官人の中にも、人の女に通じ或は妻を盗まれ、親族の中にて姦通するたぐひ、いくらといふ数を知らず」
 と書いているように、心中、道行など、叶わぬ恋の心情を切々と謡いあげる豊後節の曲節は瞬く間に江戸の人々の心をとらえ、と同時に、その影響で様々な風紀上の問題が起きた。
 元文元年(1736)に豊後節は劇場出演を差し止められ、その三年後の元文四年九月廿一日、南町奉行の水野備前守勝彦により豊後節は全面禁止とされた。
 豊後掾はそれ以前の元文二年に京へ帰り、元文五年九月一日に死んだ。享年、八十一才という。

 浅草観音堂裏に初代常磐津文字太夫が豊後掾の七回忌に建てた供養碑が現存する。
 正面中央に、還国院本譽自性處士、その右に、元文庚申、左に、九月一日。
 右面に、俗名宮古路豊後掾。
 左面に、延享丙寅九月建之、孝子宮古路文字太夫。
 延享丙寅は延享三年で、ちょうど豊後掾の七回忌に当たる。孝子とあることから、文字太夫は豊後掾の子か、或は養子だったと思われる。
 供養碑の後ろ部分や台石の刻文は畧すが、碑文は『声曲類纂』補遺に載っている。
 豊後節が禁止になって、豊後掾の弟子達は夫々独立して一派を立てる。
 文字太夫は常磐津、加賀太夫は富士松薩摩掾となり、この系統が新内になる。薗八は宮薗節に、初め品太夫といった小文字太夫は富本豊前掾となる。小文字太夫については豊後掾の弟子だったという説と、名前からして文字太夫の弟子だったという説もある。

 二代目富本豊前掾は近世の名人といわれ、富本は大いに流行した。
 この二代目は午之助と云い、初代が亡くなった時、まだ十才だったので、その後見となったのが清水屋太兵衛といった初代の富本斎宮太夫(とみもといつきだゆう)である。斎宮太夫は後に剃髪して清水延寿斎と稱した。
 延寿斎の名は「高貴の御方より賜る所也とそ」と『声曲類纂』にあるが、この高貴の御方とは雲州松江の藩主、松平宗衍(むねのぶ)だという。
 宗衍は、茶人大名として有名な松平治郷不昧公の父である。
 宗衍は富本の後援者で、この項の初めに、大名作の唄としてあげた中に洩らしてしまったが、富本の「長生」は初代富本豊後掾が独立する時に、その門出を祝って宗衍が作詞して与えたものという。
 清元の創始者、初代清元延寿太夫は、横山町の岡村屋藤兵衛という茶と油を商う商人の息で吉五郎といったが、浄瑠璃が好きで初代清水延寿斎について修行して、師の前名を継ぎ二代目斎宮太夫となって延寿斎の脇を勤めた。延寿斎の没後、故あって文化五辰年(1808)豊後路清海太夫(ぶんごじきよみだゆう)と改名、その時、紋所に青海波を用いたという。その後、清水を名乗ったが、文化十一年(1814)市村座へ出勤の時から、清水を清元と改めて清元延寿太夫と稱した。後に薙髪して二世延寿斎となった。

 以上は『声曲類纂』の記述によったが、豊後路清海太夫となったのは文化五年ではなく、文化九年のことである。
「故あって」というのは富本との確執のことで、富本斎宮太夫だった初代延寿は文化八年に富本を辞めて素人の吉五郎に戻り、村松町の裏店で古着屋をやっていたのだが、文化九年九月の中村座の「再春菘種蒔」(またくるはるなずなのたねまき)で再び引っぱり出され、それで新たに豊後路清海太夫と名乗ったのである。
 これには三代目中村歌右衛門が絡んでいた。
 三代目歌右衛門は文化五年に江戸へ下って来て五年間江戸に滞在したが、いよいよ大坂へ帰る名残狂言として、志賀山流の三番叟をやってみたいと中村座の座元の中村勘三郎にいった。志賀山流の三番叟は、「志賀山三番叟」、「舌出し三番叟」、「種蒔三番叟」とも云い、元祖中村仲蔵が天明六年(1786)十月の中村座で演じたもので、その時の名題は「寿世嗣三番叟」といって長唄だった。その後仲蔵は大坂でも「寿三番叟」と稱して「志賀山三番叟」を演じている。
 歌右衛門の申し出を聞いて、勘三郎は、志賀山流十一代目を継いでいるせいという者がいるので、問い合わせてみるがよい、といった。そこで歌右衛門は「志賀山三番叟」上演の許しを得るために番頭をせいの所へ遣るのだが、その一連の経緯については、三代目仲村仲蔵が書いた『手前味噌』という本に委しく出ているので、此処では触れない。
 三代目歌右衛門は江戸の劇壇に大センセイションを捲き起こした名優で、当時の巷間の噂に、
「大坂からえらい火の玉が飛んできて男女蔵は丸焼き、三津五郎は風下であぶない、源之助はここら気遣ない、幸四郎はそろそろ片付けな」
 などといわれていたという。
 文化九年九月九日から、「此度大坂表に登候ニ付名残狂言」と銘打って中村座で、「ひらがな盛衰記」の序幕に「寿三番叟」として「志賀山三番叟」が、長唄、清元掛け合いで上演された。もっとも、清元はまだ清元になっていないので、豊後路節とでもいうべきか。
 名題の「再春菘種蒔」で、「またくるはる」とは、再び江戸に戻ってくるという歌右衛門の気持ちが込められている。

中村座の「再春菘種蒔」の正本(筆者蔵)の表紙

 図はその中村座の「再春菘種蒔」の正本(筆者蔵)の表紙である。
 この歌右衛門の名残狂言は大当たりだった。
 この「寿三番叟」が何故長唄と清元(一応清元としておく)の掛け合いになったのか、理由がよくわからない。吉五郎の他に歌い手がないからと引っぱり出されたというから、元祖仲蔵の初演の時のように長唄であれば、吉五郎の出番はなかった筈だ。とすると、吉五郎に出て貰うために掛け合いにしたとも考えられる。歌右衛門が吉五郎に特別目をかけていたという説もあるが、はっきりしない。
 吉五郎の豊後路清海太夫は、続いて同年十一月に森田座に出演するが、以後その名を見なくなる。
 その後、文化十一月の市村座に清元延寿太夫と改名して出て来るまで、吉五郎の消息は不明で、大坂へ行っていたとか、江戸で旗上げの準備をしていたとか、様々な説があるが、これという裏付けがない。『声曲類纂』にある、「清水を名乗った」ということも、はっきりしていないようだ。

 とにかく、文化十一年十一月の市村座で、清元延寿太夫がデビューする。
 初代延寿太夫の名声は次第に高くなり、他の常磐津、富本などの諸流を圧倒するようになる。
 初代延寿太夫は文政七年(1824)に剃髪して清元延寿斎となった。
 その翌年、文政八年五月廿六日、中村座から本石町三丁目に新造した自宅へ弟子一人をつれて帰る途中、延寿斎は乗物町の辺りで、突然、何者かに襲われ鋭利な刃物で脇腹を差され深手を負った。和国橋辺りまで歩いていったが重傷のため駕で帰宅した。
 乗物町というのは神田と堀留の二ケ所にあり、神田の方は元乗物町、堀留の方は新乗物町といった。延寿斎が襲撃を受けたのは新乗物町で、今の堀留一丁目辺りにあった。乗物とは駕のことで茸屋町(市村座)、堺町(中村座)が近いその辺りには駕屋が多くあったという。和国橋は今の小舟町と堀留一丁目の間を流れていた東堀留川に架かっていた橋で、乗物町に近い。
 深手を負った延寿斎が歩いて行ったというのは、近くの和国橋辺にある駕屋に辿りついたということだろう。
 延寿斎は、帰宅して間もなく絶命した。享年、四十九才。
 犯人はわからず、迷宮入りとなった。
 富本の関係者による怨恨の犯行ではないかといわれている。
                    ——–続く——

コメントを残す