第36話 『清元「梅の春」(一)、毛利元義』

「四方(よも)にめぐる、あふぎ巴や文車(ふぐるま)の、ゆるしの色もきのふけふ、心ばかりははる霞、引くもはづかし爪じるし」

 これは、清元「梅の春」の冒頭の文句である。「梅の春」の作詞者は、長門府中五万石の大名、毛利元義(もうりもとよし)である。

 大名が作った唄としては、隠居後の作まで含めると、前にも書いた大和郡山十五万一千石の藩主だった柳沢信鴻のメリヤス「賓頭廬(びんずる)」、盛岡二十万石の大名だった南部利済(なんぶとしなり)の長唄「秋色種」(あきのいろくさ)などがある。長唄「四季の山姥」も利済の作といわれている。

 清元「梅の春」は、毛利元義が狂歌の師の四方真顔から判者の資格を許された、その披露の為に作ったものといわれている。
 毛利家に、その原本の掛け軸が伝わっているそうで、それによると、文政十年(1827)のことという。

 江戸の狂歌熱は天明年間に最高潮に達した。その後、松平定信の寛政の改革により一時沈静化するが、化政時代になって復活する。

 その天明の狂歌ブームは歌人、内山賀邸の門下から起こった。
 狂歌というと、すぐ蜀山人の名を思い浮かべるが、蜀山人も賀邸門人の一人である。

 何度か取り上げたことがある、御留守居与力で三味線の名手だった原武太夫と蜀山人は賀邸の屋敷で会っている。その時のことを蜀山人は『一話一言』の中に書いている。

「(武太夫は)市谷大隅町[後尾州御やしき囲込になる五段坂邊也]にすみて御先手与力をつとめし人その比三絃の名人也、武芸にも達せしと云予十六七のとき加賀屋敷原[市谷]内山賀邸先生の宅にて見しに、惣髪にて太刀こしらへの大小をさしたり、七十位の年なるべし」

 蜀山人が十六、七才というと、明和の初め、賀邸に入門して間もない頃である。元禄十年生まれの武太夫は六十八、九になっていて、確かに七十近い。御先手与力というのは蜀山人のカン違いか。

 内山賀邸は『名人忌辰録』によると、

「内山賀邸 椿軒 名淳時(なおとき)稱伝蔵賀邸は號なり儒にして和歌を善くす幕府の士橘州蜀山人菅江等此人に学ぶと云ふ天明八申年十一月四日没す市谷七軒寺町鳳林寺に葬る」

 とあって、唐衣橘洲、蜀山人、朱楽菅江(あけらかんこう)等、三人の名を挙げているが、この三人が天明狂歌のリーダーとなった。

 蜀山人の『奴師労之』(やっこだこ)に、

「江戸にて狂歌の会といふことを初めてせしは四ツ谷忍原横丁に住める小島橘洲なり。其時会せしもの僅かに四五人なりき」

 とあり、これがその始まりで明和六年(1769)のことである。『戯作者小伝』に、この三人が続いて載っているので、夫々どういう人物だったのかを知る為に挙げておく。

「  四方山人  名覃 字子耜、南畝と号し、又蜀山と号す、杏花園、石楠斎、遠桜山人等は別号也、通稱大田七左衛門[初曰直次郎]と云ふ、牛込に居住し、後駿河台に移る、初め狂名を四方赤人といひ、後赤良と改む、唐衣橘洲とともに狂歌の旗上して、海内を風靡す、文政六癸未年四月六日没、年七十五(以下略)」

「  唐衣橘洲
 名は恭従、字温之、後譲之と改む、酔竹庵と号す、通稱小島源之助といふ、小石川御箪笥町に住居す、田安家の小十人也、初め内山椿軒[名淳時、稱伝三]に就て、詩を賦し歌を詠ず、後四方赤良と共に狂歌を中興して、其名一時に鳴る、享和二壬戌年七月十八日没す[寛保三癸亥年十二月生る](以下略)」

「  朱楽菅江
 名景貫、初名景基、字道甫、准南堂と号す、通稱山崎郷之助といひて、四ツ谷廿騎町に住る、御先手与力也、初め漢字及和歌を内山淳時に学ぶ、後、赤良、橘州に次で、狂歌をもて名声籍甚たり、元文五申年十月廿四日に生る、寛政十二申十二月十二日に没す(以下略)」

 書き方が一様でないので分りにくいが、一番早く亡くなったのが菅江で六十一才、次が橘洲で六十才、蜀山人は七十五才まで生きた。

 この三人の中で唐衣橘洲は天明三年(1783)に『若葉集』という狂歌集を編んで刊行する。それに対して、蜀山人は翌天明四年に『万載狂歌集』を出して対抗する。『万載狂歌集』は『若葉集』を完全に圧倒して、蜀山人は引き続いて『徳和歌後万載集』を出す。明和五年のことである。

 橘洲と蜀山人の確執については此処では触れないが、互いに目指す方向が違っていたというところか。朱楽菅江は蜀山人同様、戯作にも手を染め、俳諧も手がけ柄井川柳などとも付き合いがあったというから、蜀山人の行き方に近い。

 川柳という俳句のジャンルに其の名を残している柄井川柳は、宝暦の中頃から点者として活躍していて、其の選句を呉陵軒可有(ごりょうけんあるべし)が編集した、有名な『柳樽』の初編が出たのは明和二年(1765)のことである。

 点者とは句の優劣を決め、添削や批評を加える者で、狂歌における判者と同じである。『柳樽』は、その後毎年のように発行されて、明和六年には第四編を数える。  江戸庶民の間に、川柳と同じように洒落とユーモアを眼目とする狂歌を受け容れる素地が調っていたといえる。

 三人の中では菅江が最年長で、橘洲が三才下、蜀山人が一番若く橘洲よりも更に六才年下だった。しかし、大衆に最も人気があったのは蜀山人で、蜀山人は狂歌の隆盛と共に時代の寵児となる。

 天明の狂歌ブームに水を差したのは松平定信の寛政の改革で、当時市中で言い囃された落首、

「世の中にかほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」

 が蜀山人の作であるという評判が広まり、蜀山人は上司の組頭から喚ばれて取り調べを受けたが、彼は、自分は落首は作らない、と言って言い逃がれたという。

 一説には、この歌は、

「せいしつといへどももめる紙合羽油断のならぬあめが下かな」

 だったともいう。

 蜀山人は寛政八年(1796)に四方の名を弟子の鹿津部真顔(しかつべまがお)に譲って、狂歌や戯作の活動を自粛する。
 狂歌や川柳ではグループを側とか、連とかいうが、真顔は名を四方真顔と改めて蜀山人の一派、四方側の頭領となる。

 四方真顔は、今の数寄屋橋公園付近の数寄屋河岸の家主で汁粉屋を業としていたという。初め恋川春町の門に入って恋川好町と稱して戯作者となったが、作品としては大して見るべきものはない。狂歌は蜀山人に学び鹿津部真顔といった。

 話を毛利元義に戻すが、元義は狂名を四方真門といった。勿論、四方真顔の門下である。

 江戸城では、大名の格によって詰める部屋が違っていて、五万石以下の小大名は主に、菊の間、紅葉の間、柳の間などに詰めていたという。
 大名というのは一万石以上の者で、五万石以下を小大名といい、十万石以上を大大名と稱えた。
 幕末の慶応元年には、大名家は二百六十七家あった。

 毛利元義は柳の間詰めだったが、化政時代には大名の間にも結構狂歌熱が浸透していたようで、元義と同じ柳の間詰めの大名、九州人吉、二万二千石の相良志摩守頼徳や丹波綾部、一万九千石の九鬼河内守隆慶なども狂歌を詠み、いずれも四方真顔の門下だったという。

 今回は「梅の春」の背景となった狂歌の話題に終始してしまったが、次回は話を清元「梅の春」に戻すことにする。

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