第35話 『扇面亭伝四郎(四)、百文書画会』

 文政九年(1826)六月、玉菊(菊顔玉露)の百回忌の法要が永見寺で行われたことは前回に書いたが、その時『百羽掻』(ももはがき)という本が出版された。『百羽掻』は、例の『袖草紙』を覆刻したものに新たに追善の句集を加えたもので、抱一、心牛の序と節度の跋がついている。

 玉菊への関心が高まって様々な遺品が出て来た中に、玉菊が書いたという色紙があった。墨蹟は、
「あさかほ 見しおりの露わすられぬ朝かほの花のさかりはすきやしぬらん    玉きく」
 で、この色紙を抱一が臨写して、更に朝顔の絵を描き添えたものを掛け軸に仕立てた。
 その掛け物の披露を兼ねた追善の会が、二ヶ月後の八月十三日に、八百膳で催された。
 その時の八百善の座敷の模様を円山派の画家、大西椿年(おおにしちんねん)が描いた絵が、『玉菊とその三味線』に出ている。
 絵が個人蔵ということもあるので、載せることが出来ないのが残念だ。
 簡明を心がけながら、ざっと絵の説明をすると、座敷の中央床の間に問題の朝顔の掛け軸が掛けてあり、その前に十三人の人物が描かれている。画面右端で茶を立てている人物を除いて、残りの十二名の傍らにその人物の名前が書き添えてある。

 この椿年の絵は節度の家に伝えられていたものというが、これと全く同じような絵が八百善にもあるようだ。『江戸のおそうざい』(中央公論社、『暮らしの設計』シリーズ)という本の中に、現在の八百善主人の栗山善四郎氏が「八百善ものがたり」と題して、八百善の歴史について書いているが、それに載っている八百善蔵の色紙や掛け軸の写真の中に、その絵が出ている。(写真はカラーである)絵は渡邊華山が描いたものだが、華山写とあるので、先の椿年の絵を写したものと思われる。
『玉菊とその三味線』にある椿年の絵は小さい上に印刷も古く不鮮明で、画面に書かれた字などは特に読みにくい。

 華山の絵の方は最新の印刷(昭和五十四年刊)でかなりはっきりしているが、サイズが椿年の絵より更に一まわり小さく、字については決して読み易いとはいえない。
 華山は椿年の絵を忠実に写しているが、書き入れや人名などには多少相違がある。
 例えば、椿年の絵では抱一を抱一××(不明)とあるが、華山の方では上人となっている。絵の右上の余白に書き入れがあり、椿年の方には、
「文政九戌八月十三日、玉きく墨蹟掛物出き、山谷八百屋善四郎の別荘において」
 少し間をあけて、
「朝皃(がお)手拭を引ところ也」
 とあるが、華山の方には、
「文政九戌八月十三日、玉菊墨蹟掛物出来××(二字不明)山谷八百屋善四郎於別荘追善に集う図 施主 扇面亭」
 続けて、
「引物朝皃手拭」、その下に「華山写」
 椿年の方の書き入れに追善の文字はなく、単に掛け物の披露の会ともとれるが、華山の方に追善と見えるので、一応、掛け軸のお披きを兼ねた追善の会としておいた。
 別荘とあるので、場所は八百善の店ではなく、近くの石濱(橋場の北)にあったという八百屋善四郎の別荘だったと思われる。
 前にも書いた通り、字が読みにくい上に筆者の古文書判読力の不足もあって、誤読もあると思うが、その点は御容赦頂いて画面上の人物の配置やその名前について述べることにする。

 人物の傍らに書いてある名前だが、椿年画と華山画で違っている場合に限り、椿年画の人名の下に括弧付きで華山画の人名を表示した。
絵の中央正面は床の間で、その左、障子を背にして膳を前に三人が坐っている。
奥の方から、白明主人、中万字主人、抱一××(上人)、白明主人の前で給仕をしているのは善四郎とあるので、八百膳の主人、抱一に給仕をしているのは上×(水竹)、その隣手前で手拭を肩にかけているのは××(小安?)、中央、床の間のやや右寄りで向かい合って話をしている二人は、伴蔵(和泉屋伴蔵)と担叟(坦哉)、その手前、画面中央の一番手前で何か描いているのが、この絵を描いた椿年、その右隣の芸者姿の女はお富、彼女の右前に、立てた茶を運んでいるところか、茶碗を手に立っている秋二, 秋二の向こう側、床の間近くの右側に両手に熨斗が掛かっている何かを持って立っている扇面亭。画面で立っているのはこの秋二と扇面亭の二人だけである。一番右端に釜を前にして茶を立てている者がいるが、この者だけ名が書いていないのは、八百善の使用人か。
 以上、十三名である。

 絵に描かれている人物は当日の出席者で、名前が書いてあるので、それが誰だかわかるが、名前が知れてもどんな人物か、わからないこともある。
 まず、白明主人だが、今までの経緯からして心牛ではないかと調べたが不明。
中万字屋主人は節度。善四郎、椿年、扇面亭はわかる。秋二は周二で、抱一の弟子の池田孤村である。伊藤晴雨の師で、向島の三奇人といわれた野沢堤雨は、この孤村の弟子である。芸者のお富については、岡野知十は当時の『吉原細見』には富という芸者の名は見えないので、となの間違いだろうといっている。(『玉菊とその三味線』)

 となといえば、例の中万字屋で「水調子」を語った芸者である。『十寸見編年集』で見ると、となは、初代菅野序遊となった三代目山彦新次郎の取り立て名取りとなっている。
 現八百善主人の栗山氏が書いた「八百善ものがたり」の中の華山の絵の説明に、
「玉菊忌に集った蜀山人、酒井抱一、谷文晁らと、八百善の四代目、五代目父子が包丁の腕をふるっている情景」
 とあるが、蜀山人はこの時既に亡くなっており(文政六年没)、文晁及び五代目はどこにいるのか、よくわからない。
 椿年の方にはないが、華山の絵の書き入れに、「施主 扇面亭」とある。この追善の会のお膳立てをしたのは扇面亭だったのだろう。
 絵の中で、扇面亭が両手に持っているのは引き物の朝顔の手拭と思われる。抱一の絵を掛け物に仕立てたのも、引き物の手拭を拵えたのも、全て伝四郎の采配だろう。
 扇面亭の年令、没年などについては知らないが、安政七年(1860、安政七年は三月に万延と改元になる)刊の『安政文雅人名録』に広告を出している扇面亭は次代の伝四郎ではないかと思われる。
『安政文雅人名録』の編者は弘文堂主人の細谷義兵衛で、刊行元は弘文堂である。
 同書に出ている扇面亭の広告は、この稿の初めに挙げたように、同じ扇屋の扇屋萬助の広告の半分の大きさである。
 文化十二年に『諸家人名録』を編んで書画会ブームの火付け役となった扇面亭伝四郎の面影は此処には全く感じられない。あの書画会のイヴェンターとして精力的に活躍していた扇面亭は何処へ行ってしまったのか。

 文政の世は、文政十三年(1830)に天保と改元になるが、天保三年に天保の大飢饉、以後、天保八年頃まで凶作が続き、物価は上昇、その後、天保十一年にかけて漸く落ちつきを見せる。その翌年から、水野忠邦による天保の改革が始まる。しかし、天保十四年、水野が失脚すると、物価は再び高騰。ペリーがやって来たのは嘉永六年(1853)だが、その頃、既に外国船が度々来航して、世上のの不安を掻き立て、不景気風が吹き荒れたようだ。安政に入ると、安政二年(1855)に所謂安政の大地震が起こる。

 この間、吉原へ遊びに行く者も激減したものとみえる。嘉永四年(1851)春に、京町二丁目の大和屋と角町の万字屋という妓楼が「遊女大安売」という引き札(チラシ)を出して評判になった。嘉永六年の暮れには、吉原で大店としてはただ一軒になっていた玉屋が引き札を出した。(『巷街贅説』)この玉屋は江戸町一丁目の玉屋山三郎の店で、この山三郎は「荻江節」の稿で触れた花柳園山三郎である。山三郎が新しい荻江節の運動を始めたのも、この不景気対策だったのかもしれない。

 天保十一年(1840)六月の『藤岡屋日記』に、「当夏中流行」として列挙している項目の中に、「百文書画会」とある。
 あの隆盛を誇った書画会も遂に此処まで落ちたかの感がある。百文では芸者どころか、大した御馳走も出ないだろう。
 こうした世の中の変化を書画会を牛耳っていた程の扇面亭がただ黙って傍観していたとは思えない。
『諸家人名録』が出た文化十二年から、『安政文雅人名録』刊行の安政七年まで、四十五年の間がある。いつとはいえないが、その間に書画会ブームの仕掛け人だったやり手の扇面亭は亡くなって、扇面亭は次代の伝四郎になっていたのではないかと思う。
『安政文雅人名録』の扇面亭の広告からは、あの扇面亭の迫力あるエネルギーは少しも感じられない。
                    —- 完 —-

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