第34話 『扇面亭伝四郎(三)、玉菊の三味線』

 その夜から梅塢は卒厥という病気に罹り床についてしまった。
 卒厥とは、悪い気におかされて急に手足が冷え、人事をわきまえぬ病気だという。
 一ヶ月程生死の境を彷徨った後、漸く回復した梅塢は、これはてっきり玉菊の祟りと思い込んで、毎日念仏を欠かさなかったが、たまたま、ある人の校訂した『江戸砂子』(菊岡沾涼著)を見て玉菊の墓が浅草松が谷の光感寺にあることを知り、早速同寺を訪れた。
 玉菊の墓は、『袖草紙』にも光感寺の名が見えることから同寺に有ったったと思われるが、同寺は火災に遭ったことなどもあって、墓は既に失われていた。

 ところが、光感寺では古い墓の中からそれらしい墓を見つけて玉菊の墓と稱していたので可笑しなことになった。
 梅塢はその墓を玉菊のものと信じて墓域を修理し、碑を建立した。碑文は梅塢、書は中村仏庵である。
 仏庵は幕府のご御畳方の棟梁で、通稱は彌太夫、隠居後、牛島に住んだ。能書家だった。
 梅塢は又、八百善で玉菊の追善の会を催した。仏庵は前夜からの激しい風のため不参だったが、集まったのは光感寺住職の泰誉の他、例の中万字屋で「水調子」を演奏したとなという芸者などで、その時、蘿月という者が玉菊の三味線を持って来たという。

 以上のことは、梅塢の『遊女玉菊之墳記』(碑文)にある。文の終わりのところに、仏庵の話として、仏庵がまだ若い頃、大通人の文漁(蔵前の札差、大和屋文魚)と中万字屋へ行った時、よく似た話があった、仏庵が「水調子」を語ろうとしたら、文漁が手で仏庵の口をふさいだという。  文の最後は、「かくかきつづるは、蛇山に住める梅塢也」と結んでいる。
 蛇山とは、芝居の「四谷怪談」に出てくる蛇山庵室のあった所で、三田村鳶魚の『史実と芝居と』の「四谷怪談」の章に、
「蛇山庵室は、ちょっと気がつきますまいが、蛇山といふのは中の郷原庭町のことなのです。賀茂真淵の門下に塩瀬諸鳥といふ歌人がありまして、安永の頃から原庭に住み、蛇山(だざん)と號して居った。人家の少ない場所ですし、殊にさうした人間の住宅は二つとない。蛇山の號をそのままにヘビ山さんと土地の者が呼んだのが、何時とはなしに土地の小名となったのです」
 とある。中の郷原庭町は、今の墨田区吾妻橋一、二丁目と東駒形二、三丁目の一部であったというから、仏庵の住む牛島とはごく近い。
 俳人の岡野知十が書いた『玉菊とその三味線』という本がある。(大正九年刊)
 今でも時々、古書市などで見かけることがある。その中で、岡野知十は梅塢について、初め下谷練堀小路に住み、後に本所番場町に移ったと書いているが、番場町と蛇山は近所ではあるが同じではない。本人が蛇山と書いているのだから、それが本当だろう。
 『玉菊とその三味線』には、前記の梅塢の一件は勿論のこと、翌文政九年の玉菊の追善についても委しく触れている。
 玉菊燈籠という吉原の景物に名を残している玉菊が、死後百年の間、全く顧みられなかった訳ではなく、安永七年(1780)七月の市村座の「聴浄瑠璃坂」(かねてきくじょうるりざか)という仇討狂言で、初代の瀬川菊之丞が玉菊を演じたりしている。しかし、文政のちょっとした玉菊ブームは梅塢のことが切っかけで起こったようだ。

 光感寺の玉菊の墓は、例えば忌日が宝永元年(1704)で玉菊が死んだという享保十一年とは二十年もの隔りがあったりして、別人の墓ではないかと疑問を持つ考証家や好事家も多かった。
 彼等は、玉菊の墓が光感寺にないとすると、もしかしたら中万字屋代々の墓所である永見寺にあるかもしれないと考えた。浅草寿町の永見寺には中万字屋の遊女達も多く葬られていた。
 当時の中万字屋の主人は家田喜兵衛節度で、節度は永見寺にある「菊顔玉露」と刻まれた墓を見て、それこそ玉菊の墓と思い込んだ。
 戒名に玉菊の二文字が入っており、忌日も享保十二年六月二十五日で、伝えられる玉菊の没年に近い。節度は『袖草紙』が間違っていて、「菊顔玉露」にあるのが本当の忌日と信じた。

 永見寺は中万字屋の菩提寺と書いたが、玉菊の頃の中万字屋は家田氏ではなく、山口氏だった。山口氏は名主で同時に妓楼を営んでいたのだが、その後、妓楼の経営から手を引き、中万字屋の暖簾を家田氏に譲った。つまり、中万字屋は代替わりをしていた。永見寺はその山口氏の墓所で、家田氏とは関係ない。家田氏の墓所は今戸慶養寺の潮江院である。
 文政の頃の山口氏は山口庄兵衛で、『閑談数刻』という本に、「角町揚屋町京町の名主で、俳諧は酒井抱一の屠龍門下で俳号を心牛空光洞といった」とある。心牛はこの頃、既に隠居していたが、吉原の実力者で、酒井家から藩主の弟である抱一に何事もないよう面倒を見て貰う為に、心牛に扶持が出ていたと書いてある。
 節度はこの前代の中万字屋の山口心牛の後見で、文政九年六月二十五日、永見寺で玉菊の百回忌の法要を営んだ。
 光感寺と永見寺の二つの玉菊の墓については、もっと色々複雑な事情、経緯があるのだが、どちらも本物らしく見せかけようとする作意の所産であまり意味がないので割愛した。このあたりのことは、先の『玉菊とその三味線』に委しく出ている。

 本当の玉菊の墓は、今以って不明だ。
 こうした一連の玉菊騒ぎから玉菊についての関心が高まったようで、この頃に先の玉菊の三味線をはじめ、遺墨、枕、人形、拳が上手だったという玉菊が拳相撲の時に使用した手首につける房など、玉菊の遺品が次々と出て来た。
 これらの内、三味線と人形は今、早稲田の演劇博物館にある。三味線は五世荻江露友の前田すえ師が寄贈されたものだ。
 先の『玉菊とその三味線』を見ると、玉菊の三味線はこの大正九年当時、岡野知十の所有だった。早稲田演劇博物館刊行の『資料物語』の中の「名妓玉菊の三味線」に、
「その後(岡野知十の後)この三味線は岡野らい蔵、山彦米子へ伝わり、玉菊にとってもふさわしい河東節の家へ移り住むことになり、やがて山彦八重子、そしてその実妹荻江露友さんへと伝えられてゆく」
 と出ているが、山彦米子は後の二代目山彦文子師、山彦八重子は三味線の名手、下谷のお八重さんこと、佐橋章師で、この文では、山彦八重子師がその玉菊の三味線を所有していたようにとれるが、十寸見会の長老の光岡清氏は曾って、氏の河東節の師匠である六代目山彦河良(飯箸ふみ子)師の稽古場でその三味線を見たことがあるという。岡田米子師が亡くなったのは昭和三十四年(1959)で、その頃、岡田家の御遺族の方から玉菊ゆかりの河東節関係者にその三味線を譲りたいという話があったのではないかと思われる。山彦八重子師はその十年以上前の昭和二十一年に死去されている。とすると、その八重子師が玉菊の三味線を一時的にせよ、所有されていたとは思えない。五代目露友師が直接手に入れられたものと推測する。

 玉菊の三味線は、筆者は未見だが、
「この三味線たる、胴は崩れんばかり、皮は破れ、棹はひどくカンベリがして、鳩胸には缺けがあるといふ迚も弾いても鳴りはせぬやうに荒れに荒れて居る。ただ近江の焼印があって全體を通じて時代の古色が見える。トなると古器としての賞玩がある」(『玉菊とその三味線』)
 近江というのは三味線作りの名工、石村近江のことで、石村家は代々、源左衛門近江を名乗ったので、ただ近江といっても何代目の近江の作なのか、特定するのは難しいようだ。

 喜多村信節の『嬉遊笑覧』には、近江の焼印を使用するようになったのは五代目性真善兵衛からとある。
 近江作の三味線の中でも古近江と呼ばれるものは特に名器の誉れ高く、ヴァイオリンのストラディヴァリのように珍重されて来たが、蜀山人は『假名世説』に、
「古近江と稱するは二代目善兵衛事なり」
 といって、善兵衛を二代目としている。善兵衛は貞心(『嬉遊笑覧』では性真)の俗稱で、隠居後総髪となったので、ガッソウ善兵衛といわれた。ガッソウとは総髪のことである。『嬉遊笑覧』では、蜀山人の説について、善兵衛は二代目ではなく、五代目の誤りであるといっている。信節は石村家代々の墓所、三田魚監坂下の大信寺を訪ねて調べているので、『嬉遊笑覧』の方が正しいのかもしれない。

 この善兵衛作の山彦という銘の三味線にまつわるエピソードが『江戸節根元由来記』に出ている。
 その山彦という名器を持っていたのは丹波椽和泉太夫の相方、泉權左衛門だったが、元祖河東の三味線弾きだった村上源四郎はその山彦が欲しくて、譲ってくれるよう長年懇望していたところ、權左衛門は老年になって漸く愛用の三味線を手放す気になり、源四郎はやっと山彦をわが物とすることが出来た。積年の思いが叶って余程うれしかったのだろう。源四郎は村上という名を改めて以後、山彦源四郎となった。

 以上は『江戸節根元由来記』の原武太夫の『なら柴』からの引用部分にある。
 河東節の三味線弾きが山彦を名乗るのは、このことに由来している。
 さて、玉菊の三味線だが、美しい木目の箱に入っていて、箱の中蓋の板に金泥で三島自寛の和歌が書いてあるという。歌は、
「玉たまにきくさへあるを色にかに朝夕なるる人はねたしや」
 自寛(1745~1812)は景雄、通稱吉兵衛、幕府呉服所の御用商人の六代目で富豪だったが、賀茂真淵の門人で歌もよくし、能書家、また平家琵琶も堪能な文化人だった。
 紙数が尽きたので、三味線に添えられた文化五年付のきせという女性から万花という者宛の譲り状や、後に五世中村歌右衛門の所有となった玉菊の人形については省略する。
 次回は話を扇面亭に戻す。
                     —- 続く —-

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