第33話 『扇面亭伝四郎(二)、玉菊』

 今の中央区堀留、富沢町辺にあった吉原(元吉原)が幕府の命によって浅草観音裏の地に移ることになったのは明暦二年(1656)で、実際に移転が完了したのは翌三年といわれている。我々が通常吉原と呼んでいるのはこの新吉原のことで、当時、その地は江戸の中心部から遠く辺鄙な所だったという。

 その時分の吉原の客は武士で、武士は門限が厳しく外泊はほとんど出来なかったので、専ら昼遊びだった。
 吉原は官許の遊廓で、そこにいる遊女は公娼だが、吉原以外の場所で売春する私娼達も多く、そうした私娼で賑わう所を岡場所といった。岡というのは正規でないという意味で、今でも岡惚れとか、岡目八目とかいった言葉に残っている。
 岡場所は町なかにあり行き来も容易である。岡場所が繁昌して私娼の数が増えると、吉原の営業にも影響が出てくる。そうなると、吉原から御上に対して、私娼の取り締まりを願い出る。
 幕府の窓口は町奉行所で、度々私娼狩りを行なっているが、それを警動(けいどう)といった。警動によって捕らえた私娼は吉原に収容して遊女とした。
 吉原の遊女の階級は元吉原以来、太夫、格子、端の三段階だったが、寛文以後になって格子の下に散茶という階級が出来る。それについて吉原の資料として有名な庄司勝富の『洞房語園異本』(享保五年、1720)に次のようにある。

「散茶、寛文五年(1665)巳のとし江戸所々にの居し茶屋共、吉原へ降参して七十餘人入込たり、此茶屋共多分は明暦年中に御停止被遊し風呂屋の者共、又品を替て料理茶屋と看板など掛て内證には売女を数多抱へ置きしを、吉原より御訴申上たる故、厳敷御吟味被遊候間御町中にて御禁制の商売難成吉原へ降参したり、此節茶屋共抱置し遊女五百人餘召連たり。江戸町二丁目の名主源右衛門といふ者、此砌別て世話致したるゆへ、降参の茶屋共多くは貮丁目へ引越したり、然る間貮丁目の年寄共相談し、面々の裏通りを切て、堺町、伏見町を作る、名主源右衛門をはじめ年寄共の内、其先祖伏見の者多く有し故、ふしみ町と名付、次に出し町は角町と二丁目の堺なれば、堺町と名付たり、右の両所を作りて降参の茶屋共に借し、商売爲致たり、降参の者共は風呂屋くづれ多く有しゆへ、見せを風呂屋の時の如く構へたり、今の散茶これなり。扨岡より吉原へ来りし遊女は、いまだはりもなくて客をふるなどといふ事はなし、さればいきばりもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり」

 又、寛延元年(1748)に江戸町一丁目の名主になった竹嶋仁左衛門の『洞房古鑑』によると、寛文八年の警動はかなり厳しかったようで、
「寛文八年中、岡売女御吟味強ク、売女屋七十二人、売女数五百十三人、吉原町内へ引移度旨申来ニ付、江戸町二丁目名主源蔵、嶋田出雲守様(北町奉行)、渡邊大隅守様(南町奉行)江御願申上、二丁目左右ノ屋舗地尻ニ新道ヲ付、栄(堺)町、伏見町ト名ク、同年八月出来」
 名主の名が此処では源蔵となっている。
 これら大勢の女達が吉原の移って来たことによって、散茶という新しい階級の遊女が出てくることになったのだが、その後、宝暦年中(十八世紀中頃)に太夫と格子が相次いでいなくなると、此の散茶が昼三(ちゅうさん)といわれる最高級の遊女になる。『吉原大全』(明和五年刊、1768)に、
「さんちゃ女郎といふ事、寛文十年にはじまりて、今子のとし(明和五年)まで九十八年になる。いわゆる今の昼三の事なり」
 玉菊が太夫であったかのように錯覚している人が多いが、実は玉菊はこの散茶である。  初期の吉原の客は武士だったと前に書いたが、元禄頃になって漸く経済力を持った町人達が出てくる。紀の国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などがそれだが、その紀文が落籍したという三浦屋の遊女、几帳は太夫ではなく、格子女郎である。

 前置きが長くなったが、『江戸節根元由来記』にあるように、玉菊が中万字屋を総仕舞いにして江戸節を聞きながら炙治療をしたなどということが事実だとすると、いったい玉菊のパトロンは誰だったのだろう。当然そういう疑問が湧く。中万字屋が総仕舞いするだけでも相当な金が掛かっている。玉菊にそれほどの贅沢をさせるには余程の金が必要だ。
 それについて、寛延、宝歴頃に出た『江戸真砂六十帖』という本に、
「(奈良屋)茂左衛門男子二人ありて、家屋敷と有金四拾万両譲るのよし風聞す、兄を茂左衛門といふ、弟を安左衛門といふ、兄茂左衛門気質大きに活成ゆえ、名代の牽頭(太鼓持)数多召つれて吉原へ入り込、又は、堺町葺屋町へ、昼夜に限らず遊びに長じて、吉原は中万字屋玉菊に通ひて大酒を呑、玉菊も大酒にて、病気付て次第に重りて、茂左衛門情力を尽し療治申付候が、終に病死しぬ、是を以て元祖河東節浄瑠璃にして、名題をうかむ瀬といふて、今において耳にふれる」
 これによって、玉菊のパトロンが奈良茂と知れる。
 古い「大尽舞」という唄の文句に、
「そもそもお客の始りは、高麗もろこしはぞんぜねど、今日本にかくれなき、紀の国文左でとどめたり、緞子大尽はりあひに、三浦の几帳を身受する、緞子三本紅絹五疋、綿の代まで相そへて、揚屋半四に贈らるる、二枚五両の小脇差、今に半四が宝物」
 京伝は『大尽舞考証』という書の中で、この緞子大尽について、「何人か詳かならず」といっているが、三田村鳶魚は『紀文奈良茂の情事』で、奈良茂のことと考証している。  この「大尽舞」の唄は紀文が奈良茂と争って几帳を手に入れたことを詠み込んだもので、作者の西吉とは、紀文のとり巻きの一人、道外役者の中村吉兵衛で、彼は二朱判という渾名だった。つまり、二朱吉である。二朱判とは「乾金の二朱判は、小さくて位よき金なれば、なぞらへて然はいひけるとぞ」と『大尽舞考証』にある。又、半四とは紀文が行きつけの揚屋、和泉屋の主人の半四郎のことで、高級遊女の太夫や格子と遊興するには揚屋へ呼ばなければ出来なかった。

 この紀文と几帳を競い合った奈良茂は四代目で、玉菊のパトロンだった奈良茂は四代目の長男で廣てるといった五代目である。(『紀文奈良茂の情事』)
『江戸真砂六十帖』の中で、「(玉菊が死んで)是を以て元祖の河東浄瑠璃にして、名題をうかむ瀬といふて、今において耳にふれる」とあるのは誤りで、元祖河東は玉菊が死ぬ前年に既に亡くなっており、「うかむ瀬」は玉菊ではなく元祖河東の七回忌の追善曲という。(『江戸節根元由来記』)
 三田村鳶魚によると、五代目の奈良茂は元祖河東と同様、享保十年に三十二才で没している。『江戸節根元由来記』には、まず玉菊が二十才、というと享保六年だが、患った時の贅を尽くした治療の様子が事細かに書いてあるのに対して、再び患った二十五才の時のことは、再発して二十五才で死んだとあるだけなので、五年以前と同じように豪勢な療治をしたような錯覚をするが、実はこの時既にパトロンの奈良茂は死んでいたのである。となると、この時の玉菊が五年前と同様、人の話題となる程贅沢なことが出来たか疑問だ。今は昔の語り草といったところだろうか。

 玉菊の死後、約百年後の文政八年(1825)一月の末、その日は雪が降っていた。本所中ノ郷に住む荻野梅塢は隅田川へ舟を出して雪見に出かけた。
 梅塢は幕府の天守番だったが、その頃は既に隠居していたと思われる。佛学に委しく、僧侶で彼に師事する者も多かったという。
 雪見の後、吉原へ廻った梅塢は中万字屋に登楼し、その晩はそこに泊まった。
 翌朝は雪もはれ、春の景色もやや催せる折から、卯時の飲を人々とした、と梅塢は書いている。卯時とは朝六時のことで、今ではあまり考えられないが、朝六時から酒を飲み始めたというのだ。『吉原十二時』(石川雅望著、魚屋北渓画)の中の「卯時」を見ると、泊まり客が帰る時刻だったようだ。普通は楼の出入口の所で別れるが、馴染みの客ともなると、遊女は大門の所まで送って行ったという。雅望の名文を引用すると、
「わきてしたしうせるは、つきつれて中やどりの家にいたりて酒くみかはし、かゆすすりなどして、さて大門のもとにいたりてわかるめり」
 とあるから、昔はこんな朝早くから酒を飲むことも珍しくはなかったのだろう。
 さて梅塢は、となという河東節の堪能な芸者を呼んで、場所が中万字屋ということから、ふと「水調子」を所望した。
 梅塢は昔、母親から中万字屋で「水調子」を語ると怪異なことが起こるという話を聞いたことがあったが、そのことをすっかり忘れていて酒興の上で思いついて、そう頼んだのである。
 となは、「水調子」は静かで長い曲だから、始めと終わりの方だけやりましょう、といって「水調子」を演奏した。
「水調子」を中万字屋で語ると祟りがあるという話は、実は玉菊は病死したのではなく、自害して果てたという説があり、それからそんな妙な言い伝えが生まれたようだ。  その日も酔いしれて、梅塢は夜の八時頃(初更)帰宅し、中万字屋で「水調子」を聞いたことや、靈怪なことが起こるという言い伝えなどの話をして、深夜一時頃に眠りについた。
                — 続く —

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