第32話 『扇面亭伝四郎(一)、書画会』

「江戸の扇屋」(第十回)の稿で『安政文雅人名録』に載っている扇屋萬助の広告を紹介したが、その時その前頁に載っている扇面亭平野屋伝四郎の広告にもちょっと触れた。

扇面亭平野屋伝四郎の広告

 図はその広告で、扇屋萬助のスペースの半分の大きさである。
 横山町二町目魚店の扇面亭の名を注意して見ていると、文化文政以後の書物のあちこちにその名が散見する。
 まず、どんな人物かということを知るために、三田村鳶魚の『文人画は空腹の厭勝(まじない)』から引用する。

「いかにも、文化・文政は江戸生活の頂点で、年中春風が吹き通して、散らない花が咲き続けたような気持がしたから、武士も町人も、きょう蝶(あげ羽蝶)のように浮かれてもいた。そうした時世に流行したのが書画会である。柳橋の万八・百川(ももかわ、落語にも出てくる)は、その開催の中心であったが、マアお聴きなさい。書画会芸者というのさえあったほどな景気」

「書画会といえば、会場に酒席が設けてある。食って飲んで、大家先生の揮毫を貰って帰る。会主への義理と出席先生の顔触れとで、来会者の持参する金包みの重量が違う。大家先生にもなると、書いても二三枚、大概は筆も採らずに、呼んである芸者を相手に聞し召して、一同からがい頭(おじぎ)を沢山されて、大威張りでいる。それでも、お願い申して御出席の栄を得たがったのは、来会者を誘う看板にしなければならなかったからである。畢竟、書画会は生活難の厭勝(まじない)なのだから、催主が貧乏神を攘(はら)う唯一の修法なのだ。それも千客万来の大入繁昌ではないと、御利益にありつけない。大家先生には勿論のこと、白粉臭いオチャッピイにまで、催主は、看板になってもらうために、席上の賑わいのために、頓首百拝して回り、また、会衆の狩り出しにも、足限り脚限りに奔走する様子は、今日の候補者氏の選挙騒ぎに髣髴たる醜陋煩忙を極めた。書画会にも運動者があった。その巨魁は、横山町の扇面亭伝四郎であって、蒐金には抜け目のない菊池五山と昵近なところから、誰の書画会でも、伝四郎を参謀とし運動者としなければ、物にならないほどな勢力を作った。伝四郎が『諸家人名録』を拵えたのも、まず出席者の方へ網を張ったので、書画会流行の時代には、この網に脱れた者は、何分か不景気に見える。お願い申して、網中の魚になる者が出ても来る」

 補足をしておくと、『諸家人名録』は文化十二年の刊、出版元は西村宗七で扇面亭編、白粉臭いオチャッピイというのは女性の儒者、書家、画家のこと、また菊池五山は蜀山人が、

「詩は五山、役者は杜若、狂歌おれ、芸者はお勝、料理八百善」

 と詠んだ詩人である。なお、杜若というのは五代目岩井半四郎、お勝は駿河町の芸者である。蜀山人には同じような狂歌がいくつかあり、別に、

「詩は詩彿(大窪詩彿)、書は米庵(市河米庵)に、(以下同じ)」

 というのもあり、又、他にも、書は鵬斎(亀田鵬斎)とか、芸者が有名なホリ(山谷堀)の小万になっているものもあるが、これらの元歌は、

「詩ハ五山、役者ハ杜若、傾ハかの、芸者ハおかつ、料理八百善」

 で、文化十二年(1815)頃の蜀山人の書簡に出ているのが最初という。
「傾ハかの」の傾は傾城で、新吉原若菜屋の遊女、私衣(なれぎぬ)のことらしいが、「秘伝故名ヲアラハサズ」と書簡にあるそうだ。私衣はかのの源氏名ということだろう。

 話を扇面亭に戻すが、どうもただの扇屋ではなかったようだ。

 こうした書画会の具体的な様子が、式亭三馬の『式亭雑記』に出ている。
『式亭雑記』は三馬の文化七・八年の日記だが、三馬は文化八年三月十二日に尾上町(両国橋の向こう側、現在の墨田区両国一丁目辺)の中村屋平吉方で書画会を催している。会主は勿論、三馬で、前日よりの世話役として、豊国、国満、国貞、山東京伝、京伝の弟の京山、他に摺物師、団扇屋、草紙屋、板木屋、板元などの名が挙がっている。前日より、とあるのは、前日には別人の書画会があったのだろうか。

 そのあとに、当日世話役として、扇面亭、板元の一人である鶴屋金助の弟という本や勘兵衛、刀番が三名、愚弟金蔵とあるのは三馬の弟か、その他、扇面亭の雇人が二名、続いて八名の名があって、最後に、「其の他あまたあり、略之」とある。

「扇面亭は馬喰町肴店に住す扇屋伝四郎が事也、会席にて、扇子、唐紙、短冊等を商ふ人」

「毛氈、硯の類は、扇面亭より損料にて貸す事也、至極便利にてよし、草履番人酒番人とも扇面亭より雇ひ人、甚だ事馴れたる者どもなり」

 とあって、鳶魚が書いていたことを裏付けている。
 板木屋とか、摺物師、板元まで顔を揃えているのは、書画会というのが単に出席の諸先生方の揮毫を頂くだけのものではないような気もするが、或いは、なにかお零れを期待してのお手伝いのサービスなのか、その辺の事はよくわからない。

 文政九年(1826)に玉菊燈籠で知られている新吉原中万字屋の遊女、玉菊の百回忌が営まれた。
 玉菊燈籠は有名な吉原景物の一つで、玉菊が亡くなった新盆に知人や贔屓の者が提灯や盆燈籠を軒先に掲げたのが濫觴というが、一説にはそれは三回忌の時ともいう。
 玉菊について書かれたものは多く、どれをとってよいか迷うが、生前河東節を好んだというので、『江戸節根元由来記』から引用する。玉菊の三回忌に作られた河東節の「傾城水調子」という曲について述べているところで、少し長いが全文を挙げる。

「水調子の浄瑠璃は、新吉原中万字屋に玉菊といへる女郎あり、禿しげみ、しのぶといふ、此玉菊事、きりゃう十人に優れ、情深く、高き卑きの高下もなく、諸事行届き、よき心底の生れ付きなり、誰あしくいふものなく、茶屋裏の文使のよふなるものまでも、情をかけし也、客は勿論心実深く、振といふ事もなく、欲がましき心も無く勤し也、此玉菊事、二十歳の時病気付けるが、神社仏閣へ千度百度祈祷祈念、所々へ代参、上を下へとかへし、名ある医師どもをかけ、少しも手透もなく療治を尽しければ、ようやく病気平癒ありける、夫より四花くわんもん(患門)の灸治致すべし、と医師申けるに、玉菊申には、灸事のうち、半太夫、河東両人の浄瑠璃を隔段に聞ながらすへ度よし、此由を内証(娼家の帳場)へも咄候へば、承知の旨にて、日限を極め、摺物等出せしなり、此時、家内の女郎惣仕舞、仕切り仕切りも不残うちぬきける、浄瑠璃聞に来る人々へは、吸物、酒肴、本膳等までも出し、馳走有しなり、誠に貴賎群集して、賑々敷事言語にも尽しがたく、夫より後二十五歳の時、また病気にて、終には草葉の露と消うせけり、此時こそ嘆かざりし者はなく、皆々袖をしぼりける、扨、其年七月も近く、玉菊の新盆になり、恩を受しものみな、恩送りに、提灯または切子灯燈を出し、玉菊追善の賑々敷事、貴賎群集せし、頃は享保年中也、これより吉原燈籠初りしなり」

 玉菊が死んだのは享保十一年(1726)三月二十九日で、その三回忌に追善として作られた『袖草子』という小冊子がある。

 初めに、竹婦人の序と和専という者の「香供養」と題する小文、続いて、竹婦人作の河東節の「傾城水調子」の文句、その後に追善の句が七十六句、それから、東里という者の「花廻向」という文があって、最後に蘭洲の跋が載っている。表紙には、琴の絵が描いてあり、その琴の上に「傾情水てうし」、その右側に河東節の正本にあるような細長い枠があって、その枠内に、河東の紋、その下に大きく「江戸太夫」とあって、更にその下に河東節の太夫や三味線弾きの名が載っている。絵は中村少長が描いたものという。

 この少長は二代目中村七三郎のことで、曾我十郎祐成の役を和事に改めたのは、この少長で、一代の内で二十六度も祐成役を勤めたという。少長は元禄十六年生まれだから、玉菊の三回忌の享保十三年には二十六歳である。『袖草子』は玉菊の記録としては一番古く、一番確かなものである。しかし、文化文政の頃には稀覯本として、ほとんど失われていたようだ。だから、文政八、九年頃、玉菊がちょっとしたブームになった時、間違った没年忌日から割り出した妙な追善供養が行なわれるといったおかしなことも起きた。

 文政九年の玉菊の百年忌(実際は百一年忌)の記録に扇面亭が出てくるのだが、それは暫くさて置いて、次回は玉菊についてもう少し委しく書くことにする。                  
– 続く –

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