第31話 『贅沢高名花競』と荻江節拾遺

幕末の社会資料として有名な『藤岡屋日記』の弘化三年(1846)二月のところに、『東都 贅沢高名花競』という見立番付(みたてばんづけ)が出ている。

見立番付というのは何かを相撲の番付に見立てて、優劣大小強弱などの序列をつけて番付にしたもので、見立てるものはこのように贅沢と言った事柄でもいいし、人や物など何でもありといった感じで、幕末には様々な見立番付が多数刊行されている。

 

安政六年(1859)に出た料理茶屋の見立番付

 

 

図は安政六年(1859)に出た料理茶屋の見立番付だが、番付の見方は相撲の番付と同じで、東西の大関が一番格が高い。

相撲番付と違うのは番付の中央部分で、図でいうと、中央最上部に「即席會席 御料理」という表題があり、その下に行司の欄があって二十二軒の料理屋名が四列に並んでいる。

別な番付では、行司の欄の下に更に頭取とか世話人の欄があって、一番下に勧進元というのが載っているものもある。

この中央部分に出ているものは別格扱いで、その中でも、字が大きいもの、同列の中では中央、又最下部に載っているものが最も格が上である。

図の番付には勧進元はないが、中央最下部に出ている平清、八百善、嶋村の三店が番付中の最高ランクで、真ん中に載っている八百善がその三店の中でも一番格上ということになる。

 

見立番付は相撲の勝敗のようなはっきりした判定基準がないので、番付の編者の主観によって違ってくる。

料理屋の番付でも、ある番付で大関だった店が、別な番付では関脇や小結になっている場合がある。しかし、八百善だけはどの料理屋の番付でもトップにランクされている。

さて、『贅沢高名花競』だが、『藤岡屋日記』には番付そのものが載っている訳ではなく、番付の内容を箇条書きに書き写しているので、活字本(三一書房刊)で見ると、事項や記事の上下がずれていたりして、書かれている順序などもわかりにくい。

『藤岡屋日記』の中の流言落首を書き抜いた『天言筆記』にも同じものが載っているので、突き合わせてみると、かなりはっきりする。ただ、『天言筆記』の方は『藤岡屋日記』の記事を全部書き抜いている訳ではなく一部分が欠けている。それはどうやら、番付の下半分のようだ。

 

『贅沢高名花競』という見立番付では、東西の代わりに東が「しゃれの方」、西が「いきの方」となっている。

一般的な番付同様、中央最上部に『東都 贅沢高名花競』と番付名があって、その下の行司の欄の真ん中に、大きく「蔵前河東連」、その右にやや小さな字で「吉原浄るり連」、同じく左に「妾宅一中節」と三行、その下の段に「中の町茶屋中」など、茶屋と駕籠屋が七行、更にその下段に、「堀之船宿」など、船宿が七行、最下段に、勧進元として中央に大きく「吉原太夫中」、その右に少し小さい字で「品川太夫中」、同様左に「新宿太夫中」とある。

 

この時代、既に太夫という位の遊女はいないが、最高級の遊女の意味だろう。

蔵前河東連というのが『贅沢高名花競』の行司のトップに挙がっているのは、暁雨、文魚以来の伝統が生きていたのか。

前回、諏訪頼武の『暇寝の夢』から引用した通り、明和の頃の河東連中は助六の興行の間、芝居茶屋を借り切り、辨当その他持参で、楽屋へは駕籠で往来したから、それ以外の祝儀とか飲食代などを含めると出費は大変な金額になる。

「今日如何成候事にや」と『暇寝の夢』にあるが、明和の頃と比較して、規模の相違は多少あっても、天保の頃の河東連もやはり相当な散財をしたに違いない。

蔵前河東連とあるから札差連中だったと思われる。『十寸見編年集』などの当時の河東節の記録にでている人名を拾って調べてみると、伊勢屋安右衛門(文魯)、伊勢屋平左衛門、十一屋善八など札差と思われる人物がいる。

彼等が蔵前河東連のメンバーで、『贅沢高名花競べ』の行司の筆頭に蔵前河東連とあるところをみると、やはりその派手な金使いが目立ったのだろう。

 

「助六所縁江戸桜」を歌舞伎十八番にとり入れた七代目團十郎は大変な人気役者で、三升屋二三治の母親もそのファンだった。

二三治は蔵前の札差で伊勢屋宗三郎といったが、母の影響で七代目團十郎の熱狂的ファンとなり、熱中し過ぎてついに隠居させられて、桜田治助の門に入って芝居の作者となったという前歴を持っている。

七代目團十郎は天保十三年(1842)、奢侈の咎により江戸十里四方追放になっていて、『贅沢高名花競』が出た弘化三年には江戸にいない。

八代目團十郎は天保十五年と嘉永三年の二度、いずれも中村座で、河東節ではなく半太夫節で助六を勤めていることは前に書いた。

七代目團十郎は嘉永二年(1849)に赦免になって江戸へ戻ってくる。  彼は安政五年(1858)に江戸で死んだ。

七代目團十郎が度々「助六所縁江戸桜」を演じたこともあって、蔵前河東連も人目をひくようになったのだろう。

 

『贅沢高名花競』の「東方」に当たる「しゃれの方」と、「西方」の「いきの方」の筆頭には、「山谷 江戸一 八百善献立」、「深川 土橋 平清料理」と夫々、図の料理茶屋の番付でトップランクの三店の内、八百善と平清の二店が出ている。

相撲番付では下の方になるほどランクが下がるが、『贅沢高名花競』でも同様で、下の方には「冬籠 こたつの酒盛」といった、あまり贅沢とは思えないものもある。

「食なまし 火箸でやくかまぼこ」などという思わず笑ってしまうものも載っている。

吉原で登楼した晩、遅くなって小腹がすいたが、もう台の物など頼めない夜更け、相方の女郎が火鉢で蒲鉾を炙って「食べなまし」といっているところか。

「酔ざまし 袖の梅」というのもある。

「助六由縁江戸桜」の揚巻の出で、酔った揚巻に禿が袖の梅を飲ませる場面がある。

この番付に載っているところをみると、比較的高価なものだったのかもしれない。

まだ他にもいろいろ面白いものが出ているが、その中に思いがけないことを発見した。

 

「しゃれの方」の筆頭は八百善で、それに続く四行はいずれも料理屋ばかり並んでいるが、八百善、深川屋に次いで、「橋場 古今まれもの 川口荻江唄」とある。橋場の川口といえば、川口お直の店である。

川口お直が荻江節をやっていたとは、いままで誰も指摘した者はいなかった。

お直については「佐竹の人飾り」(第十七回)で触れたが、三升屋二三治の『貴賎上下考』に、もと吉原中の町の芸者で、芝居の囃子方で笛を吹いていた忠七という男と所帯を持って両国薬研堀に料理屋を出したとある。

その後、橋場へ移って、吉原通いの客を相手に繁盛したようだ。

 

図に挙げた料理屋の番付では西の大関となっている。

お直は清元、河東節の名手で、猫背だったことから「猫」という渾名だったという。

しかし、お直といえば、何といっても清元の名曲、「北州」、「梅の春」の作曲者として有名だ。

お直は弘化二年(1845)死んだが、享年は不明である。

従って弘化三年、この『贅沢高名花競』が出た時には既にこの世にいないが、この番付の板はそれ以前に出来ていたと思われる。

「荻江節、その一」(第十三回)で引用した山彦秀翁の話にある花柳園の玉屋山三郎が、新しい荻江節の活動を始めたのは天保の末のようだ。

というのは、文政七年(1824)以来、吉原細見(吉原の案内書)に載っている荻江を名乗る男芸者は二、三名に過ぎなかったのに、弘化二年になって突然六名に増えているからだ。(竹内道敬著『荻江節考』)

 

お直が荻江節をやっていて、しかも「古今まれもの」といわれていたとすると、識者の間ではかなり評判だったのだろう。

しかし、お直は弘化二年に死んでいる。天保十五年は十二月に弘化と改元されたので、お直が荻江節と係わったのはせいぜい一年くらいの短い間だったと思われる。それでお直と荻江節の関係も一般にあまり知られることなく終わったのだろう。

お直の荻江節が「古今まれもの」といわれたのは単にその演奏が優れていたばかりではあるまい。

玉屋山三郎が作曲家としてのお直の才能を黙って見過ごす筈がない。お直の手付けによる荻江の新曲も素晴らしかったに違いない。現存の荻江節の中にお直の手になる曲が残っている可能性が高い。

「古今まれもの」という文句から、いろいろ期待が膨らむ。

— 終 —

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