第30話 「河東節」その三、『古例と変遷』

 河東節には扇に因んだ曲が何曲もあったのだが、今は「濡扇」(ぬれおうぎ)という曲だけが残っている。
 「濡扇」は曲名からもわかるように追善曲で『根元由来記』によると、二代目の庄右衛門河東の追善となっているが、『十寸見編年集』では初代蘭洲の追善浄瑠璃としている。
 「濡扇」の開曲は享保十七年(1732)、庄右衛門河東が亡くなったのは享保十九年、蘭洲が他界したのは享保十六年であることから、『十寸見編年集』の説が正しいようだ。

 十寸見蘭洲は吉原の娼家、蔓蔦屋の主人で庄次郎といった。元祖半太夫について半太夫節を習ったというから、初代の河東とは兄弟弟子になる。河東が河東節を創始した時、蘭洲も行動を共にした。『吉原雑話』に、
「蔓蔦屋蘭洲は、広沢(細井広沢)の門人、又持明院流の御流は加賀家山本源右衛門殿に学ぶとかや、将棋も上手也」
 とある通り、能書家で河東節の正本として名高い『鳰鳥集』や玉菊追善の「傾城水調子」の板下など蘭洲の自筆と伝えられている。
 昨今、「助六由縁江戸桜」上演の都度、河東節連中としていつも出演されていた家田庄一郎氏は先年亡くなられたが、この蘭洲の御子孫だった。
 享保、元文頃の流言に、
「河東裃、外記袴、半太羽織に義太股引、豊後かわいや丸裸」
 というのがある。
 可哀相に丸裸、といわれている豊後節は元文四年(1739)に禁止され、常磐津、新内、薗八(宮薗)、繁太夫節などに分裂していく。
 禁止の理由は、心中を美化謳歌する内容から市中に心中する者が出てきて、風紀上よろしくないということだったという。

 外記節は今は絶えてしまったが、河東節に預り浄瑠璃として「住吉踊」と「傀儡師(かいらいし)」の二曲が伝えられている。
 河東裃、と河東節が一番格上のように例えられているのには、いくつか理由が考えられるが、後援者に原武太夫のような武士や蔵前の札差、魚河岸の大商人などの富豪がいたこともその一つと思われる。
 原武太夫については度々触れて来たが、多くの人達が書いているので、委しいことは省畧することにした。森銑三先生の「原武太夫」(森銑三著作集、第四巻所載)には、武太夫の文献、エピソード等、殆んど網羅されているが、その中に書かれていない話が『中古戯場説』に出ているので、次に挙げる。

 元文の頃の河東(三代目宇平次河東)と二代目團十郎とは心易い仲だったので、ある年の九月、團十郎が月待(つきまち。月の出るのを待って拝することで、十七夜待、二十三夜待などがある)を催そうとして、河東に一段語って貰いたいと頼んだところ、三味線弾きの山彦源四郎(初代)が既に先約があって行かれないというので、その由を團十郎に伝えると、
「柏莚(はくえん。團十郎の俳名。正しくは栢莚)方はたれにても外の三絃ひきを連行給へ、と断りし故、是非なく、其比山の手にて素人にては無上の上手何がしと云し与力の有りしを河東頼み、やはり三絃引の体にて同道せんと云し、此人も柏莚方へ行は甚面白き事に思ひ、甚悦び、打連て行しに、河東も座に着、件の人をも三絃引の積りに引合せ、扨浄瑠理二三段語り、暫くして河東には、吸物、盃、酒など出せしが、件の人には一向に吸物も出さず、河東も気の毒におもひ、其人も甚不審して居たりしに、しばらく有て、柏莚下座の方より、衣類、ふくさ、小袖、麻上下を着し、吸物の膳椀ともに、河東にすゑしよりは抜群に目立ちし結構なる家具にて、膳をすゑければ、此人赤面したり、柏莚は元の座へ下り、敷居をへだて慎みて、私風情の人非人の宅江、御慰み様とは申ながら、入らせられ被下置候段、冥加至極、難有仕合、可申上様も無之、先々御箸とらせられ下さるべし、尤火も別段に吟味仕、相改仕立候得ば、不浄に不被為思召被召上被下置候様に、と両手をつき、頭を畳に付、平伏したり、此人も一応挨拶にこまられ、酒も少し飲れしと見ると、柏莚は次江立、本膳持参、やき物迄引、又敷居をへだてて蹲踞し居たり、此人も元来名高き遊人にて、右のあしらひ気詰りゆゑ、少し不快なりとて、河東より先へ早々帰りしと也、此時程こまりし事は一生に覚えず、とて予が友都築何がしに語られし、予も其時都築の宅へ行合せ、直咄を聞きたり、扨其人帰りし跡にて、柏莚河東をうらみ、以後ともに右体の事あらば永く絶交なり、ときびしく制したりとかや」
 その頃山の手にて素人にては無上の上手何がしと云し与力、とあるのは明らかに武太夫のことである。江戸時代の身分制度の厳しさがまざまざと伝わってくるような話だ。

 二代目團十郎は正徳三年(1713)山村座で最初に助六を演じた役者である。
 成る程、こんな風だったから、河東裃、といわれたんだなという話が『根元由来記』に載っている。
 明和年中の頃(1764~1771)、東海道島田宿の市左衛門という川役人が訴訟のため江戸表へ出て来て二、三年滞在したが、ある時吉原へ行き傾城に勧められて蘭洲、源四郎を呼んで河東節を聴いた。
「彼役人市左衛門、此浄瑠理の行儀正しきに感心いたし、終に此道に入り云々」
 河東の弟子になったという。この時の蘭洲は吉原の妓楼の主人、佐倉屋又四郎で、後に志明となった二代目蘭洲、源四郎は二代目山彦源四郎、河東は四代目の伝之助河東である。

 諏訪頼武の『假寝の夢』の「江戸太夫河東事」という項に、助六狂言の上演が決まると、そのことを河東に申し入れにいく時の次第が事細かに書いてある。
「明和の頃までハ、芝居ニ而助六狂言致候節ハ、河東を頼候事にて、右之狂言致候役者麻上下着用、河東方江参り、此度助六之狂言致候間頼候由を申、河東承知ニ而、幾日尚又参候様ニ申聞候間、其時も麻上下着用参候由。其節ハ脇がたり三味線引呼寄、助六の浄るり一段語り聞せ、役者ハ手をつき候迄之、右一度承候後、狂言當日茶屋借切置致馳走、狂言始候案内申来候得ば、茶やより楽屋迄加ごにて参り、かたり仕廻候江直ニ帰申候。楽屋にても一切之物給不申、湯も茶辨當致持参候之由。狂言仕廻候得ば、又々禮ニ右之役者麻上下ニ而参候由。今日如何成候事にや」
 なかなか格式張ったものだ。最近現團十郎丈が書かれた『歌舞伎十八番』には、古例に従って助六上演が決まると、十寸見会に申し入れに行く時のことが出ているので、比較してみると面白い。今は十寸見河東という名跡を継いでいる者はおらず、河東節はすべて十寸見会という会で統轄しているので、申し入れ先は十寸見会になる。  先代(十一代目)團十郎の頃は、簾内の河東節連中は紋付き羽織袴着用で勤めたものだが、今は羽織は着ない。
 古例は随所に残っているものの、すべて簡略化の傾向にあり、昔の格式張った仰々しさは無くなりつつある。
                         – 続く –

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