第2話 『吉原雀』

長唄、吉原雀に、

「馴れし廓の袖の香に、見ぬようで見るようで客は扇の垣根より、初心かわゆく前渡り」

とある。

吉原雀とは本来よしきりのことだが、そのかまびすしい鳴き声から、吉原に出入りする嫖客や素見客を指していったようだ。素見とは文字通り、ただ見るだけで客として登楼しない見物客のことで、ひやかしともいう。吉原近くの山谷に紙漉き場があり、そこの職人達が材料を冷やしている間は何もすることがないので、吉原を一廻りして時間潰しをしたことから、ひやかしという言葉が出来たという。

曽て吉原通いの舟で賑わった山谷堀は、今は埋め立てられて公園になっているが、そこを歩いて行けば昔、舟が通った道を辿ることが出来る。途中にいくつか橋の跡があり、その中に紙漉橋の跡がある。この橋の山谷側に紙漉き場があったのだろう。ここで漉かれる紙は上等な紙ではなかったようだ。

吉原の妓楼は道に面して格子造りになっていて、その格子の中に張見世といって遊女が盛装して並んで坐って客を待っている。

—呼出(よびだし)という高級な遊女は張見世をしない。花魁(おいらん)道中をするのは、これらの呼出である—

客は格子の外から遊女の品定めをして、気に入った女性がいれば客として妓楼へ上がる。遊女達は客を待っている間、煙管(きせる)で煙草を呑んだり、三味線の弾ける者は清掻(すががき)という賑やかな手を弾いて浮き立つような気分を盛り上げる。

吉原雀の文句の「馴れし廓の」の前の三味線の手が清掻で、長唄では三味線弾きの腕の見せ所で、かなりのスピードで弾くが、本来の清掻はもっとゆっくりしたものである。邦楽で廓を表現する時には、クラシックの標題音楽のように、必ず清掻が使われるのはちょっと邦楽に造詣のある人なら御存知だと思う。

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さて、吉原雀の文句の続きだが「初心かわゆく」とあるので、まだ遊び馴れていないウブな男なのだろう。恥ずかしくて張見世の女達をまともに見ることが出来ず、扇子で顔を隠しながら扇の紙を貼っていない要(かなめ)に近いところの骨の間から見るようで見ない振りをして格子の前を行くといった風景である。しかし、扇の垣根とは何とも上手い表現だ。

吉原雀は本名題を『教草吉原雀』(おしえぐさよしわらすずめ)といい、初演は明和五年(1768年)の市村座で、唄は富士田吉治、三味線は杵屋作十郎だった。

吉治(一時は吉次とも稱した)は又、楓江(ふうこう)といい、初め乗物町(日本橋、堀留の内)の茶屋、伏見屋の抱えの色子(いろこ)だった。色子とは蔭間(かげま)茶屋に抱えられ男色を売り、歌舞伎の舞台にも出る少年で、当時の女形はほとんどすべて色子の出身者だったという。(江戸語の辞典ー前田勇編)

吉治は佐野川千蔵という女形で舞台を勤め、寛延年間までは、舞台で当時流行の豊後節を持ち前の美声で披露したりして、なかなか人気もあったようだが、その頃が役者としてのピークで、宝暦年間になると人気にかげりが出て来て、宝暦七年には二十年にわたる役者稼業を止めて一中節の太夫になり、更に宝暦十年から長唄の唄い手になる。

吉治が色子をしていた伏見屋という茶屋の主は都和中で、吉治はその和中から一中節を習ったようだ。 吉治は天性の美声の持ち主だったが、三味線もなかなかの腕前だったらしく、宝暦年間には、役者としての評価は落目だったものの、何度か舞台で一中節の弾きがたりをして大好評を博している。

宝暦十年以降、没する明和八年(1771年)までの十二年の間に、吉治は長唄の唄い手として吉原雀のほか、鷺娘、安宅の松、綱手車など、数々の名曲を残している。 これらの曲の作曲者は、先の杵屋作十郎をはじめ吉治と組んだ三味線弾きと考えられないこともないが、彼等が吉治と共演した時以外、他にこれといった名曲を残していないことから、今日では、いずれも吉治の作曲と考えられているようだ。

秋田藩、佐竹家の江戸留守居役だった平澤常富の寛保、宝暦頃の見聞録である『後はむかし物語』に、次のようにある。

「長唄、路考(初代、瀬川菊之丞)が時は坂田兵四郎、仙魚(瀬川菊次郎、初代の瀬川菊之丞の弟)が時は松島庄五郎なり、此の両人は此ころの唄の上手なり、此後、富士田吉治出て一家をなす、継て荻江露友出るといへ共、楓江にはおよばず」

平澤常富は、また黄表紙作者、朋誠堂喜三二として有名である。

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少し時代が下がるが『三升屋二三治戯場書留』に、

「松島庄五郎は、世に長唄の元祖、名人といふ、後に流行せしは、其頃銘人富士田吉治楓江といふ、始佐野川千蔵女形を勤めしが、後長唄の名声に聞へて、楓江所作の歌うたへば、木戸にて、今は楓江じゃ、今は楓江じゃとよぶゆへ、見物此まくをまつて楓江を聞に来る人、見物を呼ぶ歌うたひ、古今の稀ものなり」

三升屋二三治(みますやにそうじ)は蔵前の札差伊勢屋宗三郎で、七代目団十郎に熱中しすぎて隠居させられ、その後、市村座の座付き作者となった人である。作者として見るべき作はなかったが、芝居の故実などに関する書を何冊か残している。

二三治は天明五年(1785年)の生まれだから、吉治は既にその十四年前に没している。二三治は、吉治については古老などの話を聞いて書いたのだろう。しかし、長唄がまだ完全に歌舞伎の伴奏音楽だった時代に、いかに美声だったとはいえ、唄で客を呼んだとは凄い。

長唄が歌舞伎の伴奏音楽である限り、歌舞伎が主で長唄は従である。歌舞伎から独立した純粋音楽としての長唄が出てくるのは吉治が死んでから半世紀以上も後のことである。 吾妻八景(四世、杵屋六三郎、文政十二年-1829年)、秋色種(十世、杵屋六左衛門、弘化二年-1845年)などの御座敷長唄がそれである。

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(終)

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