第29話 「河東節」その二、『蔵前河東連』

 新年歌舞伎座の正月興行の助六は「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)である。「由縁」は「所縁」とも書く。古くは「所縁」を使っていたようだが、今は専ら「由縁」となっている。

 「助六所縁江戸桜」は宝暦十一年(1761)春、市村座の「江戸紫根元曽我」という曽我狂言の二番目で、助六の出端に使われた河東節の曲名なのだが、その後、この部分だけが独立した一幕物として上演されるようになって、河東節の曲名がそのまま芝居の題名になったという。(『助六所縁江戸桜』守随憲治校訂、岩波文庫)
 元々、助六の曲は上演の都度作曲されていたので河東節には何曲もあったのだが、「所縁江戸桜」が名曲だったこともあり、また七代目團十郎が度々演じて天保三年(1832)に、歌舞伎十八番の内、と銘打って「所縁江戸桜」を上演して以来、助六といえば「所縁江戸桜」となってしまったようだ。

 河東節には助六の曲として、もう一曲、「助六廓家桜」という曲が残っている。
 『続飛鳥川』という本に、次のようにある。「享保より宝暦の頃迄は、江戸節とて、殊の外河東はやりけるが、それより後はすたりし由」
 宝暦の頃、河東節は流儀としては特殊なものになりつつあり、既に衰退期に入っていたと思われるが、話題性はピークだった。
 三升屋二三治の『十八大通』(別名『御蔵前馬鹿物語』)には蔵前の札差達の馬鹿遊びが書いてあるが、そのトップに出てくる大口屋治兵衛暁雨は二代目團十郎と親しく、大の助六贔屓で、芝居の助六の出で立ちで吉原通いをしたという。

 札差(ふださし)とは、江戸時代に旗本や御家人の禄米の受け取り、売り捌きなどを代行して手数料を取ることを業とする者だったが、後にその禄米を担保にして高利で金を貸し、巨大な富を得るようになる。札差という名稱は、蔵米の受取手形に受取人の名前を書いて割り竹に挟んで米俵などに差したことから付いたもので、札とは受取手形のことである。
 蔵前の地名は隅田川の西岸沿いに幕府の米蔵があったことに由来している。

 寛延二年(1748)三月、二代目團十郎が海老蔵と改名して中村座で一世一代の助六(「男文字曽我物語」)を演じた時、暁雨は中村座の下桟敷の片側を残らず買い切って見物した。東桟敷には小田原町鯉屋藤左衛門、通稱鯉藤の連中、その他、神田新場の贔屓連なども大勢つめかけて、大変な盛況だったという。
 鯉藤の家は代々河東節の後援者で、大きな影響力をもつパトロンとして重きをなしていた。
 元祖河東は魚河岸七町の一つ、品川町の魚商の伜だったことから、魚河岸と河東節との関係は深く、助六を通じて市川家とも特別な関係がある。このことは、最近、現團十郎丈が書かれた『歌舞伎十八番』にも出ている。小田原町も魚河岸の一部だから、鯉藤と河東節の関係も同じ理由で始まったのだろう。

 江戸時代、魚河岸は日本橋と旧江戸橋の間の北岸にあった。魚河岸が現在の築地に移ったのは大正大地震の後のことである。
 江戸の人口が急速に増加するのに伴い、魚河岸も次第に拡張されていったのだが、延宝二年(1674)、官許によって新設されたのが新場(しんば)である。
 今は埋め立てられてしまったが、楓川沿いの現日本橋一、二、三丁目の一部で、新場とは新肴場の意である。
 要するに、鯉藤も新場の連中も魚河岸関係者ということだ。
 この時の、河東節が「助六廓家桜」で、助六の出端(では)に河東節が使われたのは、この時が最初という。出端とは、主役の登場場面のことである。

 寛延二年は二年後、宝暦と改元になる。
 宝暦六年(1756)四月の中村座の助六、「長生殿常桜」(ちょうせいでんふだんざくら)は、二代目幸四郎が四代目團十郎と改名後の初助六で、意休は二代目宗十郎だった。
 この時、十八大通の一人で暁雨と同じ札差の大口屋八兵衛金翠は、吉原大上総屋の遊女、揚巻の馴染み客だったので、宗十郎の意休に肩入れして、助六贔屓の暁雨と張り合い、派手な贔屓合戦を演じた。
 そして、その六年後の宝暦十一年、市村座の助六が「所縁江戸桜」である。

 この時の助六は市村亀蔵、後の九代目羽左衛門で、意休は二代目宗十郎、揚巻は二代目瀬川菊之丞だった。
 元禄六年(1693)生まれの暁雨は六十九才。
 元禄十年生まれで、御留守番与力という武士でありながら、三味線の名手だった原武太夫も六十五才で、まだかくしゃくとしていたから、簾内に並んだ可能性もある。
 又、同じく十八大通の一人、大和屋文魚も三十二才の壮年で、当然、仲間達と一緒に簾内連を勤めたと思われる。
 文魚は『十八大通』によると、
 「江戸中の大通といわれる人は、皆々此文魚に隨て、親分、兄弟分などと頼みて、女郎買いの稽古場ともいわるる、河東連中は言に及ばず、どこの息子、かしこの誰も、河東節を語らねば、此文魚の気請わるく、夫故専ら流行する、各々、文魚より文の一字を貰うて、子分となり、大通の内に入る」  当時の河東節の流行に文魚は大いに寄与していたようだ。現存の「四季の探題」という曲は、この文魚の作詞、作曲と伝えられている。

 『十寸見編年集』には、
 「文魚[通稱大和屋太郎次、蔵宿(札差ということ)也、吉田氏]ハ五代目平四郎河東に学び、段数多くおぼえ、声、節、拍子ともに揃ひし名人なり、はじめ浅草御蔵前片町に住し、後森田町代地河岸通りに移住す、寛政十二年、壽七十一歳にて終」とあり、文魚のことを名人といっている。
 明和元年、明和は六月に改元されたので、実際には宝暦十四年の正月、中村座の「人来鳥春告曽我」(ひとくどりはるつげそが)の二番目に助六が出た時、四代目の伝之助河東が無断で伊勢参りに出かけて帰って来なかった為に急遽半太夫節に変更になり、以後中村座の助六は半太夫節になってしまったことは前に書いた。(第二十三回、「半太夫節」その二)

 その頃から河東節は衰微の一途をたどって行くのだが、面白いことに河東節という浄瑠璃には不思議な魅力があるようで、少数の熱狂的なファンがいていろいろと書き残してくれているので、ある程度のことはそれ等を読めば容易に知ることが出来る。
 前にも挙げた愚性庵可柳の『東都一流江戸節根元由来記』(以下、畧して『根元由来記』という)、その『根元由来記』に更に書き加えた有銭堂清霞の『東都一流江戸節根元集』(以下、畧して『根元集』という)、芳室恵洲の『十寸見編年集』などである。

 三升屋二三治が『賀久屋寿々免』に書いている、文政五年(1822)三月の河原崎座の助六の時、河東節連中が無人の為、半太夫節に替わったということは前出の各書にもなく、訳がよくわからない。というのは、河東節連中が当時無人だったとは思えないからだ。
 その前後、三年前の文政二年三月の玉川座の七代目團十郎の助六、六年後の文政十一年三月、市村座の同じく七代目團十郎の助六は、いずれも「所縁江戸桜」で、共に河東節連中が出演している。
 文政初めの河東節連中をみると、七代目の伝蔵河東は既に隠居しており、太夫としては五代目沙洲、後に四代目蘭洲となった蘭爾、河洲、また三味線弾きとして三代目山彦新次郎とその子、文次郎の親子、四代目山彦河良などの名がが見える。

 田中に住み、田中沙洲といわれた五代目沙洲は、河原崎座の助六の二年前の文政三年に亡くなり、死後、八代目河東を追号されている。三味線弾きの筆頭で田中沙洲の死後、河東節の補佐役となった三代目新次郎は文政六年に亡くなっているが、文政五年にはまだ存命だった。
 三代目山彦新次郎は吉原の引手茶屋、桐屋五兵衛の息だったが、好きな芸事に専念する為に家を妹聟に譲って河東節の三味線弾きになった。『根元集』の付録の記述によると、三代目山彦新次郎となったのは文政二年(1805)のことである。
 新次郎は琴も堪能で、山田流の祖、山田検校とも親しく、山田流の琴爪を丸くするように進言したのは新次郎だったという。
 一中節中興の祖、五代目都一中が、衰退した一中節を復興するにはどうしたらよいか、と相談をもちかけたのもこの新次郎で、新次郎は五代目一中の為に、一中節「吉原八景」を作曲し、更にその要請により相三味線となり、一中節の三味線弾きが山彦新次郎ではおかしいからと、管野序遊と名乗ったことは周知のことだ。序遊になったからといって河東節をやめた訳ではなく、両流平行してやっていたようだ。新次郎手付けの「秋の白膠木」(あきのぬるで)という曲が河東節に残っている。
 新次郎の子の文次郎も、河東節は山彦文次郎、一中節は二代目序遊として、父親同様二足の草鞋で活躍した。河東節の「江戸鴬」は酒井抱一作詞でこの文次郎の手付けである。

 文政五年の河原崎座の助六については推測になるが、三代目新次郎がもしかしたら患っていたのかもしれない。新次郎が亡くなったのは翌年だが、文政五年の演奏活動の記録が見あたらないところから、既に体調が悪かったとも考えられる。となると、息子の文次郎も出演どころの話ではなかったのか。
 田中沙洲には弟子も多数あり、蔵前の河東連なども健在だったと思われるので、顔ぶれが揃わなかったとは考えにくい。沙洲無く、新次郎病んで、肝心の核となる人物がいなかったということか。そう推量するしかない。

 この後、文政十一年(1828)三月、天保三年(1832)三月、いずれも市村座で、「助六所縁江戸桜」、助六は七代目團十郎。
 八代目團十郎は天保十五年(1844)三月と嘉永三年(1850)三月の二回、いずれも中村座で半太夫節で助六を勤めている。
 河東節の助六は文久二年(1862)三月、市村座で、天保三年以来三十年ぶりの「所縁江戸桜」だった。助六は河原崎権十郎、後の九代目團十郎で、これが江戸時代最後の「助六所縁江戸桜」となった。
                         – 続く –

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