第28話 「河東節」その一、『助六と江戸節』

 年明けの正月、歌舞伎座で「助六由縁江戸桜」が出る。助六は市川團十郎丈である。歌舞伎十八番の市川家の助六上演の際は、河東節連中という素人の旦那衆が出演することになっている。これは江戸時代からの恒例で、助六狂言は長唄や他の浄瑠璃で上演する場合もない訳ではないが、多くは江戸節といわれる河東節や半太夫節が使われて来た。

 三升屋二三治の『紙屑籠』には、
「昔しは今の豊後節の如く、替りめ替りめには、河東の浄るりを出せしものなり、近年は助六の外より河東節は更になし、江戸の花を失ひたるとぞ」
 とあり又、『賀久屋寿々免』には、
「江戸半太夫半太夫節といふ近年助六の外出勤なし昔の芝居今の豊後節の如く
替り目に出勤有て浄瑠璃いつる江戸河東河東節といふ助六の外半太夫に同し
 半太夫は中村座河東は市村座河原崎座なり近年木挽町へ河東節無人にて断の節より半太夫にて助六勤し事有て古例となる又河東の持の由聞及ふ両家共に頼みによって出勤する客同様の取扱なり故給金無之」(後半の件については後述)  とあって、江戸中期以後、河東節の衰退と共に、河東節の芝居への出演が次第に助六狂言の時のみに限られて行ったようだ。

 半太夫節も同様だが、河東節が蔵前の札差しなど有力な後援者がいたのに較べて、半太夫節には元祖半太夫の頃には紀ノ国屋文左衛門のような支援者があったが、その後、これといったパトロンに恵まれず、河東節より早く凋落して行った。

 素人の旦那衆が、いつ頃から、何故芝居へ出るようになったかについて、これという文献もないようだが、佐々醒雪(さっさせいせつ、国文学者、1872~1917)説によると、
河東節の流行が下火になって河東節をやる者が少なくなり、芝居を勤める最小限の人数が揃わなくなって、素人の愛好者達を加えざるを得なくなったのではないかという。(『俗曲評釈 河東』)

 江戸時代、江戸節というと、半太夫節と半太夫節から出た河東節を指すが、この二つは同じものとして考えられていたようだ。長唄に杵屋、芳村、松永などの派があるのと同じ類である。前に、「半太夫節」の稿(第二十二、二十三回)で、『済生堂五部雑録』に、「河東が半太夫節とて」とある例を引いたが、河東節は半太夫節と考えられていたふしがある。
『賀久屋寿々免』の中で、芝居で使用する浄瑠璃の正本の表紙の例として二三治が挙げているもの   
 図は、『賀久屋寿々免』の中で、芝居で使用する浄瑠璃の正本の表紙の例として二三治が挙げているものだが、「助六所縁江戸桜」は河東節なのに半太夫節となっている。
 柳亭種彦は、『柳亭記』で、河東節の「炙すえ」を半太夫節といっている。
 「半太夫節」の稿でのべたように、
明和元年以後、葺屋町と木挽町は河東、堺町は半太夫と大体担当が決まったようだが、座名を挙げずに町名を記したのは、三座(市村座は葺屋町、森田座は木挽町、堺町は中村座)に替わって控え櫓(葺屋町は都座、木挽町は河原崎座、堺町は桐長桐座)の興行の時も同様に出演したからである。

 二三治は『紙屑籠』の中で、歴代の半太夫について書いているが、半太夫節の助六への出演に触れている箇所もあるので、引用して説明を加えることにする。

「 江戸半太夫
 元祖半太夫節を語り伝ふ、始、紋所扇の内
  に半の字を付る
 二代目
 三代目
 四代目
 五代目半太夫は半治郎といふ、御蔵前代地
  に住、男女蔵、三津五郎助六勤る
 六代目は半蔵といふ、村松町刀やの千代と
  いふ人、後に半太夫
 七代目は、田町の駕屋にて、八代目団十郎、
  初助六を勤る、連中無人にして、一中節
  よりスケに勤る」

 「半太夫節」の稿で、半太夫の紋を扇面に本の字としたが、これで見ると、扇に半の字となっている。どう見ても本の字としか見えないが、どんなものだろう。(「半太夫節」の稿参照)

 元祖半太夫の息子は宮内といったが早世。二代目は次男の半治郎が継ぎ、三男の半三郎は後に梁雲となった、と原武太夫の覚書にある。武太夫は三代目について触れていないが、初代が薙髪して梁雲といったことから、半三郎が三代目を継いだのかもしれない。四代目は不明。

 五代目の所に出てくる男女蔵と三津五郎の助六というのは、文化四年(1807)三月の中村座で、初代の男女蔵と三代目の三津五郎が日替わりで助六を勤めた「猿若栄曽我」の事だと思われる。揚巻は五代目岩井半四郎だった。

 七代目半太夫が勤めたという、八代目団十郎の初助六は天保十五年(1844)三月、中村座の「助六廓の桃桜」である。出演のメンバーが揃わず、一中節から助っ人が出たとある。
 一中節と半太夫節の関係についてはよくわからないが、同じ江戸節の河東節とは大いにある。
 一中節の初代菅野序遊は河東節の山彦新次郎で、その子の二代目序遊は山彦文次郎といって父親同様、河東節の補佐役をしていた。現存の「邯鄲」という河東一中掛け合いの曲は天保十一年の開曲だが、河東節に二代目山彦紫存、後の可慶(死後、九代目河東を追号)、一中節に都一閑斎の名がある。後の宇治紫文斎である。

 一閑斎は浅草材木町(雷門二丁目の一部)の名主、勝田權左衛門雄輔で、狂名を千種庵諸持という狂歌師でもあった。河東や一中の作詞もしている。一閑斎は初め河東を習ったという。一中節は五代目の都一中、初代の菅野序遊について修め、二代目序遊とは特に親しかったといわれている。二代目序遊は天保十二年に亡くなったが、家元の後継問題などがあって、嘉永二年(1849)に一閑斎は独立して宇治派を起こす。この一閑斎の妾のしづが、高浜虚子の小説、『杏の落ちる音』に出てくる紫津で、一中節の名人といわれた都一静、後の宇治倭文である。

 話が横道にそれたが、一中節からの助っ人というのは一閑斎や亡くなった山彦文次郎の二世序遊の周辺の連中ではないかと思う。
 三省堂の『日本人名事典』では、半太夫の名は七代で絶えたとしているが、嘉永の頃、四代目序遊が半太夫節の家元、田中のお糸という者から半太夫節をならって、一中節の「江戸紫」を作曲したという記録がある。「江戸紫」の開曲は安政四年なので、嘉永より少し後のことかもしれない。

 田中というのは多分地名で、吉原近くの元吉町(今の日本堤一、二丁目辺)の俗称で、芸人達が多く住んでいた。
 お糸が八代目を襲名したか、どうかは不明だ。しかし、この話から、一中節と半太夫節との関係が感じられる。
 江戸時代最後の半太夫節の助六は、嘉永三年(1850)三月、中村座の「助六廓の花見時」である。

 昭和の初めに出た『江戸時代文化』という雑誌に鶴迺屋主人という人が、その中村座の助六に半太夫節連中として出演した父親のことを書いている。 「嘉永三年に八代目団十郎の出演当時、旧例による素人連の簾内浄瑠璃に僕の亡父も旦那芸の一人として罷出たものから、其時の浄瑠璃本(何といふ称があるか知らぬが西の内大判に六枚綴り勘亭流で認めたもの)を筐底から探し出して左に記すこととした」
 とあって、「助六廓の花見時」の文句が載っている。唄になる切っ掛けの役者のセリフなども書いてあるが、それを見ると芝居の運びは今の助六と同じようだ。歌詞は河東節の「由縁江戸桜」と、最初と最後だけは同じだが、かなり違う。半太夫節の正本集は『徳川文芸類聚 俗曲』にあるものしか知らないが、その中に「助六廓の花見時」はない。

 簾内浄瑠璃というのは、河東節や半太夫節の出演者は舞台へ顔を出すことなく、舞台裏の簾内で語ったからで、宮川政運の『俗事百工起原』に、
「(十寸見河東は)亨保の頃、歌舞伎芝居へ出て所作に合せて語りし事度々なり、尤も出語りのことなし、簾の内にて語りしなり」
 とあるが、初代の河東や元祖半太夫が初めから簾内で語っていたかは疑問だ。素人が出演するようになって、身分を隠すために顔の見えない簾内で語るようになったのかもしれない。その理由として、江戸時代の身分制度が考えられる。江戸時代、士農工商の下に非人という賤民階級があり、弾左衛門という非人頭が支配していた。芝居者が弾左衛門の支配下に属するか(賤民であるか)、どうかの裁判が宝永年間(十八世紀初頭)にあり、官許による一定の地域で入場料を標示して芝居を打つ役者達は賤民ではないという裁決が出た。この裁判については『勝扇子』(かちおおぎ)という書に委しい。所謂三座の俳優達は賤民ではないと認められたものの、河原乞食といわれたように、人気とは裏腹に身分的には低く見られていた。そうした芝居者と一様に見られるのを嫌ったのかもしれないし又、芝居は江戸時代最大の娯楽だったから、芝居に深く関係することは余程の道楽者と思われかねない。商人などは信用に係わると考える者もいただろう。
 こうした身分を隠す風潮は結構戦前まではあったようだ。

 十五代目羽左衛門の助六の時に出演した河東節連中の写真が残っているが、その中の男性の何名かは髭をつけたりして変装しているという。
 今は時代が一変して、簾内で語る古例はそのままだが、出演者の顔をはっきり見せるように簾内の照明もずいぶん明るくなり、簾の透き間も粗くなっている。時代の流れだろう。
                      ——-この稿続く——

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