第27話 「馬琴の旅」その三、『続首信が伝』

 のぶと深い仲になった初代の嵐雛助は肥った大男で、実悪の名人といわれた役者である。踊りもうまく、「六歌仙」の所作事の始祖は彼である。
 二人の浮き名が世間の評判になった頃、のぶの父親の御所桜の所へ、彼の弟子の角力取り達が顔を揃えてやって来て、
「親方の娘ののぶさんが、嵐雛助という役者の妾になっていると世間ではいっているが、これは一体、どういうことなんですか。娘さんがあんな役者風情の男の世話になっていても、親方は平気なんですか。それとも、ご自分の欲得ずくから、その方がいいと思って黙認しているのですか。のぶさんが親方の娘であることは周知の事実で、お陰で弟子の我々まで変な目で世間から見られて、えらい迷惑をしています。一刻も早く娘さんをあの男と別れさせて下さい。もし、それが出来ないのなら、我々はもうそんな親方についていけないので、我々の方が親方と縁を切って出て行きます」
 といった。

 この話は、江戸時代の身分制度を考慮に入れないと、理解しにくい。江戸時代の角力取りは浪人あがりが多かったようだ。一方、役者は河原乞食などといって、身分的には蔑まれていた。
 御所桜は困って、早速のぶに雛助と別れてくれるよう頼んだ。
 のぶがそのことを雛助に相談すると、雛助は笑って、
「角力取り共は、自分達が浪人あがりだから、身分が違うと思っているかもしれないが、奴等だって金をとって角力を見せているのだから、金をとって芝居を見せている我々役者と同じじゃないか。役者だって、昔は禁裏に召されたり、公儀の上覧の栄に浴したこともある。なんで上下の差があるものか。そんなことをいうのなら、オレは意地でもお前と別れないぞ」
 といった。のぶはそれを聞いて考えた末、大体こんなことになったのは、父親が角力取りをしているからで、もう年輩も年輩なのだから引退させてしまえばよいと思い、京都にしかるべき家を買って父親を隠居させた。

 雛助は寛政八年(1796)に死んだ。のぶはその時、三十六才である。
 独り身になったのぶは、三度目の芸子勤めに出る。
 間もなく、のぶは二代目中山文七に思われて彼の妻となる。この文七は俗に鬢付屋(びんつけや)文七といい、役者をやめて油屋になった男で、のぶより十一才年上だった。文七がのぶと一緒になって油屋を始めたのか、或いは、その時既に油屋をやっていたのかは知らない。
 その文七との生活も長く続かなかった。文七が病気に罹り、なかなか良くならなかった。

 のぶは願掛けをして髪を切り、四国の金比羅宮へ夫の平癒祈願の為、お参りに出かけて行ったが、その甲斐なく、のぶの留守中に文七は死んでしまう。寛政十年(1798)二月のことである。享年、四十九才。
 のぶは再び芸子勤めに出る。さすがに四回目ともなると、祇園からは出にくかったものか、大阪島の内の芸子となり、そこで馬琴と出会ったわけである。

 『羇旅漫録』の中で、馬琴は又、
「その頃浪花人の諺に、家に千金をつむとも首になるることなかれ、もし産を破らざれば、必命を落とす」
 と書いている。首とは首のぶのことで、つまり、のぶと深くなじむと破産するか、命を落とすかのどちらかだというのだ。
 馬琴と出会った竹亭の座敷で、周りの者から発句を望まれて、再三遠慮した後に、のぶが「わらはれて」の句を詠んだことは前に書いた。「その手蹟も又拙からず」と馬琴はいっている。
 のぶは馬琴に扇子を所望した。馬琴は、扇に狂文一編と狂歌を一首を認めて、のぶに与えた。

 『葵氏艶譜』の発句の中に、のぶの句がある。
「きぬぎぬの 憂名(うきな)はいづれ 散さくら」
 作者名にのぶとあるが、こののぶが首のぶである確証はない。しかし、『葵氏艶譜』には、のぶが宝暦十一年生まれと馬琴に告げたという雨柳や新町廊の吾雀の句も載っているところから、まず首のぶの句とみていいだろう。句のフィーリングものぶらしい。

 ついでにいうと、足斎として、
「かへられし 下駄のひくさよ おぼろ月」
 という句も出ているが、これが果たして、馬琴が「文事なき人と見ゆ」と評した亦助秋圃の句であるか、どうか。或いは、足斎という俳号を持つ別人の句かもしれない。

 のぶは地唄の作詞もしていて、筆者蔵の『歌曲時習考』(かきょくさらえこう)という唄本(嘉永元年版)に、哥妓首のぶ作、峯崎勾当調(調とは作曲のこと)として「こすのと」と、首のぶ作、藤永検校調として「むすぶて」の二曲が載っている。
 「小簾の戸」(こすのと)は地唄舞いとして、よく出る曲である。「結ぶ手」は耳にしたことがないので、現存の曲なのか、どうかわからない。
 のぶの作品として、歌詞を挙げておく。
「浮き草は、思案の外の誘ふ水、恋が浮き世か浮き世が恋か、ちょっと聞きたい松の風、問へど答へず山ほととぎす、月やはもののやるせなき、癪にうれしき男の力、じっと手に手をなんにもいわず、二人して釣る蚊帳の紐」(「小簾の戸」)
「汲みて知れ、身に沁む秋の風にはあらで、遠ざかり行く難波潟、人はあしともいふならめ、われもよしとは思はねど、浮き世の義理はぜひもなや、わが身一つはもとの身の、春にもならば梅が香の、やみにも通ふ袖の露、いとど思ひやまさるらん」(「結ぶ手」)
 どちらの唄が先に出来たのかは知らないが、歌詞としては、「結び手」の方が秀れているように思える。難波潟という言葉が入っているからといって、必ずしも島の内へ移ってからの作とは言えないが、「結ぶ手」の文句を見ると、のぶが我が身の来し方を顧みて綴ったもののような気がする。のぶの思い、かなしさ、さびしさが切々と伝わってくる。

 馬琴と出会った享和二年(1802)より数年後ののぶのことが、『浪花見聞雑話』という本に出ている。
 「首のぶ」というところに、
「寛政年中に、南堀江にのぶと言藝子有。産は堀江にして容顔甚美なり。小六雛介鬢附屋文七等を男としたり。年を経て再び藝子に出たり。文化の初年に北の新地ねり物の節太鼓の役に出たりしが、四十遥に過たれど勝れて美敷故、首のぶと言」
 享和は千八百四年に文化と改元になった。馬琴と会った時、南の芸子だったのぶが、北のねり物に出ているということは、その後、住み替えたものか。しかし、のぶの美しさに変わりはなかったようだ。

 以後ののぶについては、前出の『祇園と舞妓』に、
「いつしか、旦那食い、男殺しの悪い評判が立ったため、急に人気が落ち、晩年はみじめな暮らしのうちに、さびしくこの世を去った」
 とあるが、よくわからないというのが本当のようだ。
 馬琴が、「浪花人の諺」として引き合いに出したように、雛助、文七など、のぶの男達が次々に死んだことから、口さがない連中が「家に千金を積むとも、首に馴るること勿れ」と、面白おかしく囃し立てたのは事実だろう。しかし、それだからといって、美貌で文才もあり人あしらいもよいのぶが、急に落ちぶれて行ったとは考えにくい。「結び手」の文句に、「春にもならば、梅が香の——-」とあるように、もう一度、新しい春を迎えたのかもしれない。
                          —– 終 —–

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