第26話 「馬琴の旅」その二、『首信が伝』

 馬琴の著作は寛政三年(1791)二十五才の時、京伝の門人、大栄山人として出した黄表紙『尽用二分狂言』(つかいはたしてにぶきょうげん)が最初である。
 馬琴の名を用いるようになったのは寛政五年からで、同八年以降、毎年数冊の黄表紙を刊行、その後、伝奇小説を眼目とする読本(よみほん)の創作に転換して行く。

 読本の処女作は『高尾船字文』(寛政八年)である。
 馬琴が上方旅行へ出かけた享和二年には、彼の名はそれ程有名ではない。馬琴が文壇での地位を確立したのは翌享和三年に出した読本『月氷奇縁』といわれ、代表作の『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)の前編の刊行は文化三年(1806)、『里見八犬伝』の第一輯の出版は文化十一年(1814)で、まだまだ先のことだ。

 上方へ旅立つに当たって馬琴は、蜀山人や京伝から彼等の各地の知人に宛てた紹介状を貰って、出発して行った。
 特に、京伝は神奈川宿まで同行して馬琴を見送り、道中なにかの足しにするようにと、自分の書いた物などを馬琴に持たせてやったという。
 馬琴はその傲慢な性格から多くの知己と仲違いをしている。三馬や京伝もそうなのだが、その頃はまだ、京伝との間はうまく行っていた。

 『羇旅漫録』の【百十九】に、大阪で馬琴が新町郭の吾雀を訪れた時のことが出ていたが、それとは別な日に、馬琴は道頓堀近くの島の内の竹亭という家へ行った。その時、座敷に呼んだ芸子の中にのぶと幇間の音八がいた。
 前に引用した【百十九】の終わりの方に、「南ののぶと音八」とあった、そののぶと音八である。
 南とは、『筆拍子』という本の「遊里異名」の項に、新町に続いて島の内があり、
「向ひ側 是は坂町、道頓堀辺よりさして島の内を言ふ、只南といえるのは、島の内にかぎる也」
 とあって、島の内を指していることがわかる。
 【百十七ノ下】の「幇間 京もならべ評す」の中に、
「島の内の幇間に音八といふものあり。これは狂文発句など少しくできるなり。又新町に亦助といふ幇間あり。畫をよくす」
 とあって、此処にも秋圃の亦助の名が出ている。

 【百十八】に「首信が伝」として、馬琴はのぶ(信)の生い立ちや竹亭でのぶと会った時のことを、かなり委しく述べている。
「大坂島の内に信といふ芸子あり。人渾名(あだな)して首のぶといふ。いふこころは顔色絶麗。その首艶美なるを以てなり」
 首のぶという奇妙な呼称は、のぶの襟足が美しいことから付いた渾名だったのだ。
 のぶは座敷に入って来て席につくと、馬琴の名を呼んであたかも旧知の如くに話しかけたという。
 のぶは戯作者、馬琴の名を既に知っていたのである。
「のぶ来りて席に着と、そのまま予が名を呼て言語旧知の如し。餘の哥妓幇間等先え来れるものも、いまだ予をしらざるものあり。のぶ問はずしてはやくその名を知るあやしむべし」
 と、馬琴は驚いているが、内心はうれしかったのだろう。
「席上の嫖客のぶに発句をもとむ。のぶ再三辞して後、
 わらはれて 夜をひた啼や きりぎりす」

 嫖客とある同席者は、雨窓、国瑞、廬橘などで、廬橘については前に述べた。
国瑞は、先に挙げた馬琴の『訪問往来人名録』に、
「南本町五丁目、醫師、詩文家、国瑞と號、馬田昌調老。(肩書に)戊辰(文化五年)六月より大坂船場米屋町心斎橋筋東へ入南側新宅」
 とある。雨窓については調べたが不明。席上、一同で即興の発句を作ったというから、やはり俳諧の嗜みがある人物だったと思われる。

 さて、のぶのことだが、
「大坂雨柳の話に、のぶ宝暦十一年(1761)巳年にうまれ、今享和二壬戌にいたりて、四十三歳なりといふ」
 雨柳は俳人で、『葵氏艶譜』にも、
「はづかしの 杜の木の間や 初もみじ」と「霞にも つつめと梅の 匂ひかな」の二句が載っている。
 雨柳がいっているように、のぶの生まれたのが宝暦十一年だとすると、その時のぶは四十二才で、一才の差がある。
 兎に角、四十二、三になっていたのに、二十五、六にしか見えなかった、と馬琴は書いている。以下、馬琴の話を要約すると、
 のぶの父親は御所桜長兵衛という角力取りだった。のぶは安永の初めに京都祇園の芸子となった。
 仮に、それを安永二年(1773)とすると、のぶは十三才である。

 美人ののぶには客が群がったが、中でも豪商三井氏がのぶに入れあげて数万両を使ったという。三井の一族、番頭等は驚き、慌てて彼を伊勢松坂の店の方へ蟄居させて、勘当同然の扱いとし、金が自由に使えないように宛てがい扶持とした。
 のぶは、金のある時はチヤホヤし、金が無くなったらサヨナラでは義理人情に反くと、彼の後を追って松坂へ行き、十三年の間、彼に仕えた。その間、本居宣長の弟子となって『源氏物語』を勉強し、機を織ることも覚えたという。
 三井の番頭等は、そんな二人の生活がそう長くは続くまいと高を括っていたと思われるが、いつまで経っても変わらないので、今度はのぶを泣き落しにかかった。
 貴女の気持ちはよくわかった、十三年間の苦労は並みの女では到底出来ない、でもこのまま貴女があの方の傍にいる限り、御両親のお怒りは解けない、前途あるあの方をこのままにして置くのは忍びない、といってあの方は貴女にぞっこんで、貴女と別れる気は毛頭ない、それで貴女にお願いするのだが、貴女が本当にあの方のことを思うなら、どうかあの方を思い切って、別れて貰いたい、それが何よりもあの方の為、と口説いた。

 のぶは思案の末、別れ話を受け入れて、京都へ帰る決心をする。
 三井家では大喜びで、手道具、路銀を用意してのぶに与えた。
 のぶが愛する男と、どんな別れ方をしたのか、書いてないのでわからない。
 馬琴は、豪商三井氏と書いているだけで、三井の誰とはいってないが、手許にある『祇園と舞妓』(熊谷康次郎著)という本では、『譚海』にある依田学海説を取って、これは三井治郎右衛門高英のこととしている。
 高英は三井家の五代目当主で、俳人としても有名、俳号を仙渓亭嘉菊といった人物である。
 しかし、ちょっと調べたところでは、どうも高英では話が合わない。
 高英は明和四年(1767)生まれで、のぶより六才年下である。仮に彼が十五、六才から遊び始めたとして、その頃のぶは二十一、二になっている。その後、松坂で十三年過ごしたとすると、のぶは京都へ戻って来た時、少なくとも三十半ば以上になっている。それから馬琴に会う四十二才まで、七、八年位しかない。後述のような様々な出来事が、その間にあったとするには、少し短過ぎる気がする。又、そのことばかりでなく、高英の生い立ちには、十三年の空白(松坂での蟄居生活)はない。

 三井家には他に該当する人物は見当たらないようだ。もしかしたら、同族の家原氏の誰かかもしれない。(高英は家原家から出て、三井の養子になった)
 さて、京に戻ったのぶは、三井家から贈られた手道具を売り払い、七十数両で櫛笄、着物などを調えて、再び祇園から歌妓として出た。その全盛むかしにまされり、と馬琴は書いている。
 松坂でのストイックな十三年間の反動か、のぶは役者狂いを始め、やがて情人が出来る。嵐雛助である。江戸で亡くなった雛助の父、とあるから、二代目小六となった雛助である。二人の噂は忽ち世間に広まった。
                     ——– 続く ——–

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