第25話 「馬琴の旅」その一、『葵氏艶譜』

 扇を宙に投げて舞いを舞う芸子の絵は、『葵氏艶譜』(きしえんぷ)という絵本の中の一枚(部分)で、場所は大坂の新町廓の座敷、この絵の右半分には、舞を見物している客や廓の女達の姿が描かれている。
 江戸でいう芸者を上方では芸子という。上方で芸者といえば、男芸者を指す。
 又、江戸では、踊りを踊るというが、上方では、舞いを舞うという。
扇を宙に投げて舞いを舞う芸子の絵
 『葵氏艶譜』は新町廓の風俗を描いた三十五枚の絵から成る多色木版刷りの絵本で、雙鳩法師(雙鳩子とも)の絵と共に、大坂や大坂近郊の俳人達、及び太夫などの廓の女達の発句が載せてある。
 享和三年(1803)、大坂で出版された。
 この絵一枚だけで、『葵氏艶譜』の全体像を想像するのは難しいかもしれないが、軽妙な漫画的タッチで、それでいて決して品が悪くない、ほのぼのとした画風である。
 雙鳩子が誰かということは、かの写楽程ではないが、いろいろ取り沙汰されて来たようだ。  

 筆者蔵の『葵氏艶譜』(山内長三編、文化出版社)の解説によると、雙鳩子とは九州秋月藩のお抱え絵師、斎藤秋圃のことで、それを発見したのは中野三敏氏だという。
 ちぬ翁(『京摂戯作者考』に、ちぬ平魚とある人物か?)という人の書いたものの中に、
 「葵氏は花洛人、初足斎又雙鳩と号す。後築石に下りて何某の君の寵を得て奉仕す。秋圃とあらたむ」(文化十二年)  とあるそうだ。  

 秋圃は明和五年(1768)に京都で生まれた。元の姓は池上、後に斎藤と改めた。葵臻平(あおいしんぺい)、又は葵衛ともいった。
 葵氏とは、このことから来ている。
 通称は亦右衛門、号は秋圃、雙鳩の他、茗哉等々。
 絵は初め、円山応挙(1733-1795)に習い、応挙の死後、猿の絵で有名な森狙仙(1747-1821)に師事したという。  

 寛政七年(1795)から十年間、秋圃は中国九州を放浪して、安芸の宮島から福岡、有田を経て長崎へ行った。
 享和三年(1803)、当時、長崎警備のため、同地に滞在していた秋月藩八代藩主、黒田長舒(くろだながのぶ)の耳に秋圃の名が聞こえ、二年後の文化二年に三人扶持十二石で、秋圃は正式に秋月藩のお抱え絵師となった。その時、秋圃は三十七才だった。
 秋月藩主、黒田長舒は自身も絵をたしなんでいたという。
 その後の秋圃の後半生については比較的よく知られているが、しかし、寛政七年以降の放浪の十年間については、まだ不明のことが多いようだ。  

 中野三敏氏は、『葵氏艶譜』のあまりの出来栄えに一驚して、これは少なくとも廓内に住み慣れた絵師でなければ、とうていここまで描写し尽くすことは不可能だろうと直観されたという。
 同氏の『江戸文化評判記』(中公新書)に、秋圃が推測通り一時、新町廓で幇間をしていた事実をつきとめた経緯が書かれている。
 それによると、滝沢馬琴の『訪問往来人名簿』の文化四年の二月二十四日と二十六日の二度にわたって、秋圃は馬琴宅を訪ねていて、「芝、黒田甲斐守様御内、葵衛殿」と名があり、その横に、「筑前秋月住居」、更にその横に、「衛はもとかがの人也、大坂新町呉雀楼にての知る人。その頃は亦介といひし也。画をよくす」と、馬琴の注記があるという。
 馬琴が上方旅行へ出かけたのは、享和二年のことで、五月九日に江戸を出発、京大坂から伊勢を廻って、八月二十四日に江戸へ戻った。その旅の記録が『羇旅漫録』(きりょまんろく)である。
 馬琴が大坂に着いたのは七月二十四日の夜で、十日程大坂に滞在の後、八月五日に大坂を出立している。
 大坂に逗留中の一夜、馬琴は廬橘に伴われて新町の茶屋、松雄屋(呉雀楼)へ行った。
 『羇旅漫録』の【百十九】に、「吾雀が噂 附幇間亦助が噂」として、  

「大坂新町ひょうたん町の茶屋、松雄屋伊右衛門は、吾雀と號し俳諧をよくせり。手迹も又拙からず。元トは醫家の子にて後に幇間をなしけるが、近ごろなりいでて茶屋となりぬ。吾雀妓院中の人に似ず、至極見識あるものなり。予一夕廬橋にいざなはれて吾雀を訪ふ。主人大によろこびて長夜の飲をなす。(中畧)又同所に亦助といふ牽頭(幇間)あり。元トは加賀の人なるよし。この亦助畫をよくす。吾雀よびむかへて予に謁せしめ、席畫をなさしむ。亦助席上に筆をとる筆意甚だ妙なり。予に賛をこふ。吾雀も又これに賛す。この亦助至極柔和にして、幇間のごとくならず。みづから足斎衛之と號す。但文事はなき人と見ゆ。(中畧)大坂の妓院中、この二人(吾雀と亦助)と、南ののぶと音八のみ、少しく風流ありてみゆ。京にてかかる徒に風流あるものを見ざりし」

 とある。呉雀楼は吾雀楼、亦介は亦助である。この馬琴の記述から、秋圃亦助の姿が彷彿とする。『葵氏艶譜』の解説には、秋圃は京の生まれとあったが、此処には、加賀の人なるよし、とある。馬琴は実際に当人から聞いたのだろうから、加賀の産というのが正しいと思われる。  

 さて、廬橘という人物だが、『羇旅漫録』の【百四】、「大坂市中の総評」の中に、  

「廬橘といふ人は、筆耕と戯作をして家内五人を養ふ。是も筆耕に作者をかねて渡世にする人、大坂に廬橘壹人なり。この人予逗留中大に深切にもてなさる。戯作のみをもて妻子を養ふこと、廣き江戸にさへなければ、大坂は書肆の富る地なることこれにてしるべし」

 とあって、羨ましがっている。江戸の戯作者達は、京傳や三馬等も皆、小間物屋や薬屋などの副業を持っていた。
 この文の廬橘の頭注に、追書として、
 「廬橘が著述、度々書肆に損をさせければ、後には行れず、文化辛未(1811)、ゆくへしれずなりぬといふ」
 と、その後の廬橘の消息が載っている。廬橘の書いた物はあまり当たらなかったようだ。  

 『京摂戯作者考』には、廬橘について、
「廬橘菴 京師の人、名は仲宣、俗称は田宮由助といふ、風流の人にて、詩歌をよくし、著作を業のごとくせしといふ、大田蜀山人、曲亭馬琴など、出京の時、友とし遊びよし、又、蜀山人と京摂の風俗を問答せし所以者何といふ書もあり」
 とある。廬橘については、以上で終わる。  

 『葵氏艶譜』に載っている発句の中に、吾雀の句がある。
「うぐいすの たまりてふみし 清水哉」
 吾雀の注に、備後の人、琅堂と号す、とある。
 馬琴が亦助、吾雀と一緒に名を挙げている、のぶと音八については後述する。
 兎にも角にも、秋圃が幇間だったことにはびっくりする。しかし、それであったからこそ、廓の風俗行事を機微にわたって描くことが出来た訳で、成るほどと納得がいく。
 太鼓持ちから大名のお抱え絵師となった秋圃の後半生は輝かしいものだった。絵師としての名声もあがり、晩年まで精力的に製作活動を続けた。
 秋圃は安政六年(1859)、九十一才で死んだ。長寿だった。

                  ———– 続く ———–

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