第24話 『湛増と扇の印』

 『平家物語』によると、治承四年(1180)源三位頼政が以仁王を奉じて兵を挙げた時、その企てを知って逸早く平家に通報したのは熊野の別当、湛増だった。別当とは諸寺の長官の称である。もっとも、この時には湛増はまだ熊野別当になっていない。

 『平家物語』の巻四、「源氏揃」に、
 「其比(そのころ)熊野別当湛増は、平家に志し深かりけるが、何とかして漏れ聞きたりけん、新宮の十郎義盛(源為義の末子の行家、後に行家と名を改めた。平治の乱後、新宮にいた。)こそ、高倉宮の令旨賜はて美濃尾張の源氏共觸れ催し、既に謀反を起なれ。那智新宮の者共は、定て源氏の方人をせんずらん。湛増は平家の御恩を、天山と蒙りたれば、爭(いか)で背奉べき。那智新宮の者共に矢一つ射縣て、平家へ子細を申さんとて、直甲(ひたかぶと)一千人、新宮の湊へ発向す。(中畧)互に矢叫の聲の退轉もなく、鏑の鳴止む隙もなく、三日が程こそ戦うたれ。熊野別当湛増、家の子郎等多くうたせ、我身手負ひ、辛き命を生つつ、本宮へこそ逃上りけれ」
 『平家物語』には種々の伝本があり、内容や記述に異同があるが、手許にある岩波文庫から引用した。岩波文庫の『平家物語』は、覚一本系の流布本を底本としているようだが、別の葉子十行本系の伝本では、この最後の「熊野別当湛増」のところが、「おぼえの法眼湛増」となっている。これについては後述。
 湛増の名が次に見えるのは、平清盛の死を書いた巻六の「入道死去」の冒頭の部分で、
 「其後四國の者共、皆河野四郎に随附く。熊野別当湛増も、平家の重恩の身なりしが、其も背いて源氏に同心の由聞えけり」
 とあり、その後、巻十一の「鶏合 壇浦合戦」に登場する。

 「熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、忽に其恩を忘れて[平家へや参るべき。源氏へや参るべき。]とて、田邊の新熊野にて御神楽奏して、権現に祈誓し奏る。[唯白旗につけ。]と御託宣有けるを、猶疑をなして白い鶏七、赤い鶏七、是を以て権現の御前にて勝負をせさす。赤き鶏一つも勝たず皆負けてけり。さてこそ源氏へ参らんと思定めけれ。一門の者共相催し、都合其勢二千余人、二百余艘の船に乗り連て、若王子(にゃくおうじ。熊野十二所権現の一つ)の御正體を船に乗参せ、旗の横上には、金剛童子を書奉て、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家も共にをがむ。されども源氏の方へ附ければ、平家興覚てぞ思はれける。又伊豫國の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乗連て漕来り、源氏と一つに成りにけり。判官旁憑しう力ついて 思はれける。源氏の船は三千艘、平家の船は千余艘、唐船少々相交れり。源氏の勢は重れば、平家の勢は落ぞ行く」(岩波文庫『平家物語』)
 この段は前の引用文と矛盾しているように思われる。
 清盛が死んだのは治承五年二月(1181,七月に養和と改元)で、その時には既に湛増は源氏方へ寝返っていた。壇浦合戦は元暦二年三月(1185、八月に文治と改元)で、この間四年の間がある。鶏合の選択が四年以上前のことなら、話は別だが——–。

 『平家物語』に出てくる湛増は、義理人情にお構いなく形勢のよい方へさっさと乗り換える、節操のない男に見える。
 「平家の重恩の身」と書かれている湛増は、十八代熊野別当、湛快の子で、母は源為義の娘の鳥居禅尼で、妹は平忠度の妻である。系図の上では源平どちらにも関係がある。父の湛快以来、田辺を拠点として、田辺別当と称した。源頼政挙兵の時は權別当だった。
 『熊野別当代々記』によると、湛増の熊野別当補任は文治三年(1187)となっているそうだが、『吾妻鏡』の元暦二年三月九日(壇浦合戦の少し前)のところに、
 「九日、壬辰、参河守自西海被獻状云」
 とあって、その時九州で戦っていた源範頼からの書状が載っている。その中に湛増の名がある。読み下しを挙げると、
 「熊野別当湛増、廷尉(義經)の引汲に依って追討使を承り、去る比(頃)讃岐國に渡り、今又九國に入るべき由、其の聞え有り」
 熊野別当湛増とある。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史であるから、この時既に湛増は熊野別当二十一代になっていたと思われるが、そうすると『熊野別当代々記』の記述と合わない。当時はまだ、源氏が天下を取る前のことなので、『代々記』では正式な補任を文治三年としたのかもしれない。
 海軍力で平家にはるかに劣っていた源氏にとって、湛増が率いる熊野水軍や伊予の河野通信の水軍が味方についてくれたことは、さぞ心強かったにちがいない。

 最後に湛増の名がでてくるのは、巻十二、「六代誅斬」(ろくだいのきられ)である。
 「小松殿(平重盛)の御子丹後侍従忠房は、八嶋の軍より落ちて行方も知らずおはせしが、紀伊國の住人湯浅權守宗重を憑んで、湯浅の城にぞ籠もられける。(中畧)熊野別当、鎌倉殿より仰せを蒙って、両三月が間に八箇度寄せて攻め戦ふ」
 とあるが、ここでは単に熊野別当といっているだけで湛増の名はない。しかし、あきらかに熊野別当湛増のことである。
 因みに、忠房が捕えられて殺されたのは、文治元年(1185)十二月という。
 当初、湛増は平家方だった。源頼政の謀反を知って、新宮の源氏方を攻めたのは『平家物語』では湛増となっている。  しかし、『源平盛衰記』では、大江法眼という者が三千余の兵を率いて新宮を攻めて敗れ、その大江法眼の甥で和泉國の住人、佐野法橋という者が福原へそのことを通報した、としている。前に書いた葉子十行本系の「源氏揃」にある「おぼえの法眼」というのは、この大江法眼が混同されたものと思われる。

 『平家後抄』(角田文衛著)によると、熊野別当家には内紛があり、湛増の父の十八代熊野別当、湛快の死後、母の鳥居禅尼は新宮の行範と再婚して行快(二十二代別当)等を産み、行範は十九代別当となったが、本宮の湛増は自分を捨てた母親に反感を持っていたらしく、行範と行快が源氏寄りなのに対し、積極的に平家に接近して、その恩恵を受けていたという。源為義の末子の行家を匿まっていたのは新宮の行範達である。平忠度の妻となった湛増の異母妹は初め行快の妻で、尋快(後の二十八代別当)という子まであったのに、引き離して平忠度の妻にしたのは湛増だったという。
 新宮を攻めて敗れた湛増は二十代別当だった範智を動かして反平家に転じ、新宮や那智とも妥協した。変わりが身が速い。
 「平家重恩の身」という『平家物語』の表現が生々しく感じられる。
湛増が文書に使用した印判
 図は湛増が文書に使用した印判である。
 扇面に松の字の印は、同一の印ではないが、他の熊野別当も用いていたようで、また同じ図柄を紋として使っていた形跡もあって、この湛増の扇の印は、熊野別当の印ではないかと、いわれているようだ。

“第24話 『湛増と扇の印』” への1件のコメント

  1. […] https://twitter.com/pino_quincita/status/266165999622045696 … の「誤植」画像、高野山文書宝簡集「熊野山別当湛増請文」か。『大日本古文書』では「五本骨扇に松の字」 http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/0101/0109.tif … 。骨の本数は不正確だが、誤植ではなく湛増の印章では。 http://localhost/site/essay/24_tanzo/  […]

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