第23話 『「半太夫節」その二』

 『根元記』の冒頭は原武太夫の覚書であるが、それに続く部分は菊岡沾凉の『世事談綺』の「浄瑠璃」の項である。

 『世事談綺』は様々な事物の起原について書いた本で、この稿の前号で引用したのは、その「浄瑠璃」の項の後半部分だが、『根元記』ではその初めから半太夫に関する部分までが載っている。文言に多少の異同はあるが、明らかに、『世事談綺』からの引用である。
 『根元記』のその後の記述にも他書からの引用があるかもしれないが、今は思い当たらない。

 『根元記』の最後に、愚性庵可柳という人の後記がある。
 可柳という人物についてはよく分かっていないが、
 「壮年の頃より、此道に心を寄て、束の間も忘るることなく、(中畧)日々夜々其奥意を闡して、わづかの草紙にかくは作るなり」  とあり、続いて、
 「もはや七十次にもなれば云々」
 とあって、最後に、文化元年(1804)甲子五月の日付がある。遡ると、享保二十年(1735)の生まれとなる。『根元記』の後の部分は、この可柳が書いたものと思われる。

 初代半太夫の生没年は不明だが、享保に入った頃にはもう亡くなっていたようだ。(後述)
 元祖河東が半太夫節から独立したのは享保二年(1717)で、その時、初めて舞台で語った浄瑠璃が「松の内」といわれている。一説には享保三年ともいい、   『根元記』(後半部分)では、
 「まつの内、此浄瑠璃、半太夫と河東破談に相成、初て出来る」  といって、それを亨保三年戌としている。
 しかし、この享保二、三年の半太夫と河東の破談説は疑問で、破談になったのはもっと後のことのようだ。というのは、その後の河東節の正本集、『仁本鳥』(にほどり、享保四年刊)、『鳰鳥万葉集』(にほどりまんようしゅう、享保八年刊)には、江戸半太夫の名とその紋が一緒に載っているからだ。 
半太夫節の正本「風流きぬた」の表紙の一部分
 図は、半太夫節の正本「風流きぬた」の表紙の一部分で、江戸半太夫の名の上にある、本と言う字を書いた扇が半太夫の紋である。
 元祖河東は享保十年(1725)、四十二才で亡くなった。酒が好きで、自ら酒乱漢をもじって手欄干と称した。その酒が原因で亡くなったともいう。

 河東の人気は大変なもので、本家の半太夫を凌ぐようになって、だんだん両者の間の溝が深まって行ったと思われる。
 安永五年(1776)の序文がある『済生堂五部雑録』(阿僧祇著)に、
 「元禄の頃半太夫梁雲出来て其流を伝、十年余勤しに宝永の頃河東太夫其流を継、享保の頃までも河東が半太夫節とて流行(はやり)しとかや」
 この中で、「河東が半太夫節とて」といっているのが面白い。

 半太夫節も河東節も歌舞伎の助六狂言と縁が深い。助六狂言の初演は正徳三年(1713)の山村座の「花館(屋形とも)愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で、この時の助六は二代目市川団十郎で、白酒売はかの絵島生嶋事件で名高い生嶋新五郎だった。この初演の助六が半太夫節だったか、どうか、には諸説あるようだ。山東京伝は『近世奇跡考』の「助六狂言の考」の中で、
 「諸説皆虚妄なり。延享中(1744~1747)板本[栢莚一代記]を見るに、正徳三年四月、木挽町山村座において、栢莚(はくえん。二代目団十郎)はじめて此狂言をす。時に年廿六。花屋形愛護桜と云。狂言の二番目に、江戸半太夫浄瑠璃にて(以下略)」
 と、半太夫節としている。

 石塚豊芥子の『歌舞伎十八番考』(嘉永元年脱稿)でも、半太夫節でタテ唄は江戸吉太夫だったとしている。
 石塚豊芥子は鎌倉屋十兵衛といい、豊島町(今の東神田二丁目辺の一部)で芥子屋を営んでいたことから豊芥子と号した。雑学の大家として知られていた。
嘉永元年(1848)の序文がある『わすれのこり』(茂蔦散人著)の中に、「珍書持」として、四日市達磨屋悟一待賈堂と豊島町からしやの名が挙げられている。
 達磨屋悟一は、日本橋南詰の江戸橋寄り元四日市の書店、待賈堂の主人で、珍書稀書を集めた『燕石十種』を編んだ岩本活東子こと、岩本佐七は悟一の養子である。前出の『根元記』も『なら柴』も『燕石十種』に入っている。 活東子の 『燕石十種』の成立には悟一の力が大いにあったといわれている。
 豊島町からしやとは勿論、豊芥子のことだ。

 さて、二度目の助六は、初演の三年後、正徳六年(六月に享保と改元)正月の中村座の「式例和曾我」(しきれいやわらぎそが)である。この時の助六も二代目団十郎で、出端は半太夫節だった。『歌舞伎十八番考』に、
 「(和曾我の)傘さしての出端、江戸吉太夫上留りにて古今大当りなり」
 とある。「式例和曾我」という曲は半太夫節の正本にもあって、この二度目の助六が半太夫節だったことは明らかなようだ。
 正徳六年の評判記『芝居晴小袖』の団十郎のところに、
 「元来、髪すき曾我は、廿八年以前巳の年(元禄二年)今の親半太夫が初て語りしなり」
 とあるので、この時には元祖半太夫は既に故人になっていたと思われる。

 河東節の助六出演の最初は、享保十八年(1733)、市村座の「英分身曽我」(はなぶさぶんしんそが)で、河東節の名題は「富士筑波二重霞」である。この時の助六は市村竹之丞、後の八代目羽左衛門だった。
 半太夫節と河東節は、『済生堂五部雑録』にあったように、同じ江戸節として一緒に考えられていたようだ。その後、江戸節の主流は年と共に河東節に移って行く。元祖河東の人気は絶大で、享保十年に河東が亡くなった時、築地本願寺の塔頭、成勝寺へその棺を送って行く人の数は千を超えたという。(京伝『近世奇跡考』)
 河東の死後、河東節は二派に分裂して、やがて衰微して行き、宝暦の頃(十八世紀なかば)には江戸生まれの浄瑠璃として一部の好事家の間では熱狂的に支持されていたものの、大衆からは遠い存在となり、歌舞伎への出演も助六狂言の時だけに限られてしまう。

 『根元記』によると、四代目伝之助河東の宝暦の頃、中村座の助六に出演することになっていたのに無断で伊勢参りに出かけていき、初日に間に合わなくなってしまった。中村座では慌てて半太夫に頼み込んで、やっと上演に漕ぎ着けた。
 「向後、この芝居は河東相止め、半太夫計(ばかり)と相談相極る。其例にて中村座は半太夫計り、市村座、小挽町(森田座)は河東勤になる」(『根元記』)
 この助六は、明和元年(1764)「人来鳥春告曽我」(ひとくどりはるつげそが)だったという。(『助六の江戸』佐藤仁)
 以後、中村座の助六は安永八年(1779)の「御攝万年曽我」(ごひいきまんねんそが)の時を除いて、すべて半太夫節となっている。
 安永八年の助六は、他からの口添えがあって、河東の出演となったという。(『助六の江戸』)この時の河東は六代目の忠次郎河東である。

 現今の助六といえば、「助六由縁江戸桜」と極まっている。初演は宝暦十一年(1761)、市村座の「江戸紫根元曽我」(えどむらさきこんげんそが)で、助六は市村亀蔵、後の九代目羽左衛門だった。
 その助六の芝居の中で、くわんぺら門兵衛と朝顔仙平が助六にこっぴどく痛めつけられる場面がある。そのやりとりの中で、
仙平「これなる木の根につまづいて思わぬ負をいたしたり」
門兵衛「角力の勝負は知らねども、木の根は正(まさ)しく、ここに有る」

このセリフは半太夫節の「祐成相撲物語」(曲節は失われた)の「兄の大場が駆け寄って、角力の勝負は知らねども、木の根は正しく爰(ここ)に有り」の文句どりだと指摘されたのは、河東節十寸見会(かとうぶしますみかい)代表の故田中青磁先生だった。
 江戸半太夫の名は七代続いたが、明治の初めに絶えたという。
 最後の江戸太夫といわれた河東ぶしの十寸見可慶(死後、九代目河東を追号)の息、山彦秀次郎(後に秀翁)は、河東節として半太夫節を十七曲伝承していたが、昭和三十五年には、河東節に残っている半太夫節は僅か六曲となっている。その曲名は次の通り。
 蝉丸笠の段、きぬた、鑓踊(やりおどり)、小袖模様、翁、三番叟。

                     ———-終———

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