第22話 『「半太夫節」その一』

「人はとも云へ我が身には、三国一の殿持ちて、富士さへ次に見し山の、今は上なき雲の峰、月を招きし扇にも、見しはかへらで面影の、なほなつかしき御影堂(みえいどう)、城殿(きどの)の扇召すまいか」

 これは半太夫節「百日曽我」の五段目、「扇売り」の一節である。「扇売り」は「扇売り、虎小将道行」ともいい、十郎五郎の亡き後、虎御前と化粧坂(けわいざか)の小将が扇売りに身をやつして、曽我の末子、越後の国上の禅師を訪ねて行く道行の趣向である。

 文句に見える御影堂の扇については、「江戸の扇屋」(第九回、第十回)及び「扇之記」(第十一回)の稿で述べた。

 城殿の扇とは、京扇の元祖、城殿駒井氏が造った扇のことで、『雍州府志』の巻七、「土産門下」の服器部に、

 「扇 元鷹司通城殿駒井氏製之今良賎常用之扇小川併所々有之然不及御影堂之製也其寺僧尼共造之是謂折屈折而摺畳之謂也號之謂某阿弥折」

 とある。『雍州府志』は貞享三年(1686)の序文がある漢文で書かれた山城国の地誌である。著者の黒川道祐は、名は玄逸、京都の儒医で、『雍州府志』という書名は、京の都がある山城国を長安がある中国の雍州に比して名付けたという。

 これによると、江戸の初期には、京扇、所謂摺畳扇は城殿の駒井氏が初めて造ったといわれていたようだ。京都で初めてということは、多分日本で初めてということだろう。ただ、残念ながら、いつのことなのかには言及していない。

 半太夫節は江戸半太夫が語り創めた浄瑠璃で、今日「江戸節」というと、この半太夫節と半太夫節から出た河東節を指すが、広義には土佐節、肥前節、外記節など、江戸生まれの浄瑠璃を含めていっているようだ。

 菊岡沾凉(きくおかてんりょう)の『世事談綺』には、

「江戸浄雲節 正保のころ、薩摩太夫治郎右衛門と云。江戸浄瑠璃の祖なり。
       法体して浄雲と云。子を又さつま太夫治郎右衛門と云。浄雲弟子
       丹後太夫、長門太夫、丹波太夫、源太夫の四人あり。これそのころの
       四天王の太夫と云。今の浄るり太夫、浄雲が血脉ならざるはなし。
       其むかしは端浄るり計(ばかり)にて、段浄るりは浄雲に始。
 江戸語斎節 近江太夫と云。丹後が弟子なり。
 江戸肥前節 長門太夫が弟子なり。
 江戸外記節 下りさつまと云。二代目さつま太夫治郎右衛門が弟子なり。
 江戸土佐節 虎之助と云。二代目さつまが弟子なり。
 江戸永閑節 源太夫が弟子なり。
 江戸半太夫節 幼名は半之丞といふ。修験者何院とかやの子也。はじめ
        は肥前太夫が門に入、後一流をかたり出せり。又塚原市
        左衛門と云もの、半太夫座の上るりを作る。半太夫剃髪
        して坂本梁雲と云。東武近世の名人、今以て此流儀すた
        らず。
 江戸河東節 小田原町にして、肴を鬻てよしあるものなり。半太夫が弟
       子と成り一流をかたる。」

 とある。『世事談綺』の刊行は享保十九年(1734)である。著者の菊岡沾凉は通称を藤右衛門、名を房行といい、神田鍛冶町に住んで、表具師金属彫刻を業とし、俳諧は内藤露沾の門で沾凉といった。著書多数。延享四年(1747)没、六十二才。逆算すると貞享三年(1686)の生まれである。

 半太夫が肥前太夫の弟子になったことについて、『東都一流江戸節根元由来記』(以下畧して『根元記』という)には、もう少し委しく書いてある。

 「(半太夫は)初めは、説経、祭文の名人なり、肥前是を聞、江戸節を進めて門に入、後に一流を語り出し(以下畧)」(『根元記』)

 『根元記』は、主として河東節のことについて書かれた書だが、その他の声曲についても他書に見られない記述があり、江戸の声曲史料として貴重な書である。著者は複数で、何人かが書き加えて行って出来たものである。

 『根元記』の最初の部分は原武太夫が書いたもので、『根元記』と同じく燕石十種にある『なら柴』の中の武太夫の覚書が、そのまま載っている。「かきおくも あとのかたみとなら柴の おりおり忍ぶゑにし とも見よ」という和歌のところまでがそれであるが、『なら柴』の覚書には、その後に、「原武太夫、盛和、行年六十八歳。此一冊、懇望に付、沙州源四郎へ自筆して遺す」とある。この後記は『根元記』にはない。

 この武太夫の覚書は、市村羽左衛門、尾上菊五郎の懇望により筆をとったと文中に見えることから、羽左衛門と菊五郎に与えたものと思われる。また後記から、沙州と源四郎にも同じものを与えたようだ。

 武太夫の年令から、この覚書が明和元年(1764)に書かれたものとわかる。とすると、羽左衛門は九代目、菊五郎は元祖菊五郎、また沙州とは後に五代目河東となった薪屋平四郎、源四郎は河東節の三味線弾き、二代目山彦源四郎である。

 半太夫節のことを書くとなると、どうしても河東節に触れざるを得ないが、河東節については改めて書くつもりでいるので、今は必要最小限に止めておく。

 原武太夫についても、その時に詳述するつもりなので、簡単に畧暦を記す。

 武太夫は御留守居与力で三味線の名手だった。元禄十年(1697)の生まれで寛政四年(1792)没。九十六歳の長寿だった。『なら柴』の他に、『隣の疝気』『断絃余論』等の著書がある。

 その『断絃余論』の中で、自分が相方をしたものを列挙しているが、半太夫節の所では、

 「半太夫節は古梁雲、今梁雲(二代目半太夫)、半十郎、初太夫、文次郎」

 といっている。

 前出の覚書の中で半太夫に関して、

 「肥前太夫弟子、江戸半太夫 入道して梁雲、本苗坂下。子、宮内 早世。子、半次郎 後半太夫。子、半三郎 後東雲。弟子、善太夫。弟子、半之丞 世ニ知ル名人。半之丞弟子、後河東。弟子、初太夫。弟子、文次郎」

 とあり、河東を半之丞の弟子としている。

 沾凉、武太夫と、その著書について、いささか煩瑣にわたって書いて来たが、それは彼等の書いたものが、後世に半太夫節について書かれたものの原史料となっているからだ。

 二人は初代半太夫と同時代を生きた人物である。
 武太夫は、初代半太夫、二代目半太夫、初代河東と共演している。

 沾凉は武太夫より十一才年上で、職人として市井にあって多数の著書を書いた知識人だった。
 彼等の半太夫や河東に関する記録は、実際に見聞したことであり、それだけに信憑性が高いと言える。

 浄瑠璃という言葉は、小野のお通という信長(秀吉という説もある)の侍女が、矢はぎの長者の娘、浄瑠璃姫と源義経の恋物語を十二段に仕立てたものに節をつけて語り始めたことに由来すると言う。

 浄瑠璃の太夫は皆、夫々操り(あやつり)人形芝居の座を持って興行していたが、やがて歌舞伎へもでるようになる。

 浄瑠璃が初めて歌舞伎へ出たのは延宝六年(1678)、多門庄右衛門が、「海道下り」、「奴丹前」などを江戸中村座で演じた時に、薩摩外記がその浄瑠璃を語ったのが最初という。

 京都で元禄十六年(1703)に刊行された有名な歌謡集『松の葉』や、同じく宝永七年(1710)刊行の『松の落葉』には、吾妻浄瑠璃として多数の半太夫節の曲が載っている。他の江戸浄瑠璃を圧倒して全体の八、九割を占めている。その頃、半太夫節は上方まで広まり、かなり人気があったようだ。

 半太夫節の流行の理由はいくつか考えられるのが、一つはそれまでの長い浄瑠璃と異なり短い端物浄瑠璃が多いことだ。浄瑠璃は物語を一通り語るものだから長いものだが、宴会や酒席で語るには長過ぎる。そんなことから、大衆の好みが短いものに向いたということ。又、当初の浄瑠璃は朗読や太平記読みのような調子だったと考えられるが、歌舞伎の影響などで、語るというより謡うに近い曲節を聴かせるものに変化して行ったようだ。(佐々醒雪『俗曲評釈、河東』、明治四十三年刊)

 半太夫節はこれらの特長を持った当時最先端の浄瑠璃だった。
 『松の葉』の刊行から『松の落葉』の刊行まで七年の間があるが、『松の落葉』には『松の葉』にはない歌舞伎唄が多数載っている。
 当時の社会的嗜好の変化が垣間見られて興味深い。
                      —–この稿続く—–

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