第21話 『「重ね扇」その三、元祖尾上松緑』

 この『重ね扇』の稿の初めに挙げた元祖松緑の伝は『名人忌辰録』に拠ったが、同書に「尾上松助 松緑」とあるのを、単に「松緑」とした為に「松助」という名が落ちてしまったので補足しておく。

 『名人忌辰録』には、いつ松助となったのか、書いていない。同書の「尾上松助 松緑」の項は、以下の如くである。

 「初代菊五郎門人宝暦五年尾上佐之助同六年市村座初舞台同十年春五郎と改め後紋三郎明和二年二枚目と成り同七年立役と成る文化六年松緑と改名文化十二年九月十六日歿す歳七十一寺同上」

 最後の「寺同上」とは、松緑の前に載っている四代目菊五郎の項の「浅草今戸廣樂寺に葬る」の廣樂寺を指しているようだ。

 三升屋二三治(第二回「吉原雀」を参照)の『戯場書留』には、松緑について、

 「初名子供より尾上松助三朝と云、近年、女形より敵役にいたる大達者、なかにも、寛政、文化の幽霊、怪談、工風(夫)者の祖にして云々」

 とあり、これによると、松緑と改名するまでずっと松助だったようにとれる。そうすると、『忌辰録』にある佐之助、春五郎、紋三郎の名はどこから来たものか。手許にある他書にも、それ等の名前は見当たらない。

 二三治は、松緑が亡くなった文化十二年(1815)には三十一才(数え)で、その三年前の文化九年から狂言作者として市村座にその名を出している。勿論、 松緑の舞台も実際に見て、よく知っていたと思われる。『忌辰録』の記事からすると、松助と改名したのは、明和二年か、七年のどちらかといえそうだ。

 明和七年(1770)刊の一筆斎文調と勝川春章の『絵本舞台扇』(三巻三冊)に、扇面枠に描かれた女形、松助の絵が二枚ある。(いずれも、文調画)刊行が明和七年ということは、それ以前に板木等準備されていた筈だから、明和二年かも知れない。
 二三治は天明五年(1785)の生まれだから、彼が生まれる二十年も前のことだ。
 一応、疑問を残したまま、書いて置く。

 冷房のない時代、夏の芝居小屋の中の暑さは大変なものだった。
 そのことは、第十六回の「明治の芝居小屋と伊藤晴雨」の中に書いたが、勿論、江戸時代も同様だった。従って客の入りも悪く、又もう一つ別の理由もあって夏の芝居の入場料は特に安かったと云う。

 夏芝居というのは、旧の六、七月中の興行のことで、

 「堺町ひっそりとなる暑い事」

 という川柳がある。堺町には中村座があった。享保の頃、二代目団十郎が六月に休みをとって以来、重立った役者達が六月に土用休みをとることが一般化したようで、従って夏芝居というと主要な役者抜きの顔ぶれの興行で、それが安値芝居のもう一つの理由だった。暑い上に看板役者もいない芝居では、入場料を安くしない訳にはいかないだろう。寛政の頃(十八世紀)には、夏芝居は若手中心になっていたという。

 その安値の夏芝居を普通の興行並みに格上げしたのが、初代松助(後の元祖松緑)だった。
 文化元年(1804)七月の河原崎座の「天竺徳兵衛韓噺」(てんじくとくべえいこくばなし)で、天竺徳兵衛に扮した松助が大評判となり、連日の大入りとなった。(後述)しかし、この時の興行は従来通りの安値興行だった。

 その三年後の文化四年頃の川柳に、

 「あつい事芝居正札付きになり」

 とあるのは、この年の市村座、六月興行の松助の「三国妖婦伝」が大当たりで、正札、つまり、今までの安値芝居ではなく、かけ値割引なしになったというのだ。(『考証江戸歌舞伎』小池章太郎)

 「天竺徳兵衛」も「三国妖婦伝」も作者は勝俵蔵、後の四世鶴屋南北(大南北)である。
天明二年五月、中村座の『助六曲輪名取草』で、くわんぺら門兵衛に扮した松助
 図は、天明二年五月、中村座の『助六曲輪名取草』で、くわんぺら門兵衛に扮した松助である。着物に重ね扇に松の字の紋がついている。松助は俳名を三朝、また重扇ともいったという。因みに、この時の助六は五代目団十郎、意休は有名な初代中村仲蔵、揚巻は初代中村里好、白酒売りは三代目澤村宗十郎で、これに図の松助を加えた五人を勝川春章が五枚続きの絵としたものの一枚である。

 「夏芝居重子あふぎか元祖なり」

 というのは、松助のことを指している。
 三升屋二三治は、その著書の中で度々松助松緑のことを書いているが、『芝居秘伝集』の「近頃怪談の元祖」の項で、次のような話を記している。

 松助は大変手先が器用で、「忠孝両国織」という忠臣蔵の替わり狂言の中で、自分の首を自分で彫って、その首が置いてある舞台へ出て行ったが、誰が見てもそれと分かる程、あまりに真に迫った出来栄えに、見物は皆、あっと驚いたと云う。その他、提灯から出る幽霊も息子(養子)の三代目菊五郎と長谷川道具方と拵えたり、工夫あまたありと書いている。

 『賀久屋寿々免』(がくやすずめ)には、松助が追い剥ぎに出会った話が載っている。

 本所多田薬師(吾妻橋の少し下流の川べり、現墨田区東駒形一丁目にあった)門前で追い剥ぎに会って丸裸にされた松助は、隅田川に飛び込んで両国橋まで泳いで逃げたという。

 「水れんを得たる者ゆえ水中の早替わりに妙を得たり」

 とある。泳ぎは大変達者だったようだ。

 俳優堂夢遊(やくしゃどうむゆう)の『俳優世々の接木』(やくしゃよよのつぎき。解題に天保年間の刊とあるが、安政五年の記事も載っているので、それ以後の刊行と思われる)によると、前記の文化元年の土用芝居、「天竺徳兵衛韓噺」で、土間に水槽を拵え、水中での見事な早替わりで観客をびっくりさせた。妖術で座頭から上使への早替わりだったらしいが、あまりに見事な変わりように、南蛮渡来のキリシタンの邪法ではないかと疑われ、役所へ呼ばれて取り調べを受けたという。松助は道具万端自分で工夫したと申し開きをして許されたが、そのことが又、評判となって芝居は大入りになった。これまでにない程の大入りで、金主も大儲けをした。

 「この人外の役者と違ひ一流にして第一工風(夫)者なりすべておばけに用ゆる道具万たん皆自分の手さいくなりよって中興の稀人といふべし」(『世々の接木』)

 松助は文化六年、松助の名を息子の栄三郎に譲り、松緑と改名した。二代目松助となった栄三郎は後の三代目菊五郎である。

 前出の『世々の接木』によれば、松緑の家号は新音羽屋である。松助の時は音羽屋だったようであるから、松緑になってからの家号だろう。最近の松緑は音羽屋だった。今度襲名する新松緑も音羽屋である。同名の役者でも家号が異なる場合があるから、別にどうということもないかも知れない。中村仲蔵は初代から三代まで、三人とも家号が違っている。

 元祖松緑が松緑と改名した時、六十五才だった。年と共に、さすがに老齢には勝てず、体力の衰えはどうしようもなかったようだ。
 文化十一年五月、市村座の怪談劇「復再松緑刑部話」(またぞろしょうろくおさかべばなし)で、松緑は主役の刑部姫を演じた。老狐の化身である刑部姫は身の丈が一丈六尺(約四米八十糎)の大女で、勿論、松緑得意のカラクリだったのだが、何度も失敗を演じて評判が悪かったという。

 その翌年、文化十二年に松緑は死んだ。享年、七十一才。松緑であったのは晩年の六年間だった。

 松緑の芸は息子の三代目菊五郎に継承された。三代目菊五郎はやはり水泳の名手で、父の天竺徳兵衛の早替わりを引き継ぎ、更に自分獨自の芸域を広げて行って、父親を凌ぐ大役者になった。文政十一年刊の五渡亭国貞の絵に山東京山(京伝の弟)が戯文の讃を書いた画本『三賀之津俳優素顔、夏の富士』上下の上巻のトップに「尾上菊五郎、尾上松助」が出ている。三代目菊五郎と三代目松助(三代目菊五郎の三男)である。

 何といっても三代目菊五郎の代表狂言といえば「東海道四谷怪談」だろう。「四谷怪談」は三代目菊五郎と大南北のコンビが生んだ大傑作である。

 その大南北を見出したのは元祖松緑だった。その時、まだ勝俵蔵といっていた南北は既に五十才になっていた。安永五年(1776)二十一才で見習作者となった南北は、その後ずっと下積み生活を送っていたのだが、まだ松助といっていた松緑に認められ、松緑の口添えで立作者となった。四世鶴屋南北を襲名したのは文化八年五十四才の時である。その後二十年近くにわたって数々の名作を書き残した。

 最後に、もう一人の松録について書いて置こう。松緑ではなく、松録である。

 『世々の接木』によると、松録は尾上多見蔵松朝(1797~1886)の弟子筋で、初め大谷徳二郎といった。その後、中山百花(1764~1853)の養子となり中山兵太郎といったが、更に尾上梅鶴と改め、故梅幸(三代目菊五郎)と名古屋に一座して四谷怪談の伊右衛門を勤めた時に、松録の名跡を借り受け、その後、 梅幸が死去したので松録の名を戻さずに名乗ったとある。家号は京極屋である。本来ならば、二代目ともいえそうな人だが、緑と録が違うこと、また正式に襲名した訳ではないので、とりあげられなかったのだろう。

(追記)
(一) この項を書いている中で、重ね扇に抱き柏の紋を付けた初代菊五郎の絵を何枚か目にした。元祖菊五郎が既にこの紋を付けていたとすると、最初に引用した『江戸小唄』のこの紋の由来話はあり得ない。誤伝と訂正させていただく。

(二) 初代松助(松緑)は重ね扇に松の字の紋を用いたが、文政年中の紋番付では、菊五郎(三代目)、松助(三代目)共、重ね扇に抱き柏となっている。

前出の初代松助のくわんぺら門兵衛の絵をもう一枚(三) 前出の初代松助のくわんぺら門兵衛の絵をもう一枚。同じ天明二年中村座の絵番付(筆者蔵)の一頁である。右が松助で、後ろの左手の袖に重ね扇に松の字の紋が見える。両脚の間に、少し見にくいが枩(松)助の字が読み取れる。左の意休は落語や講談で名高い初代の中村仲蔵である。(勝川春旭画)

ここまで書いて来て思い出したが、昭和六十年、十二代目団十郎の襲名披露公演(歌舞伎座)の「助六」で、奇しくも同じくわんペら門兵衛を演じたのは二代目松緑だった。

コメントを残す