第20話 『「重ね扇」その二、延命院事件』

 延命院の調査に当たったのは、時の寺社奉行、脇坂安董(わきさかやすただ)である。

 寺社奉行は、勘定奉行、江戸町奉行と共に、三奉行といわれる幕府政治機構の中枢の役職である。数ある奉行の中で、寺社奉行は大名が勤めることになっていて、もっとも格が上だった。

 寺社奉行の定員は四、五名で、その重要な役柄から、譜代の大名が勤めることになっていたが、その例を破って、外様大名として初めて寺社奉行になったのが、脇坂安董だった。

 安董は幡州竜野、五万千八十九石の藩主で、脇坂家の祖は賎ヶ岳の七本槍の一人、脇坂甚内安治である。

 安董が寺社奉行に就任したのは、寛政三年(1791)三月である。

 その昔、寺社奉行には奉行所付きの役人というものがいなかったので、大名である奉行は自分の家来を使って役務を勤めたのだが、奉行が替わると、その家来共々、すべて入れ替わってしまう爲、いろいろ不都合もあったようで、天明八年(1788)に吟味物調役(ぎんみものしらべやく)四人が配属され、それが安董就任の寛政三年に留役と改称され、更に寛政八年に再び吟味物調役の呼称に戻った。

 延命院を慎重に内偵していた安董は、享和三年(1803)五月二十六日に延命院に踏み込み、日潤、柳全を逮捕、その他、密室内にいた女性達を検挙した。同年八月、日潤は死罪、柳全は晒の上、触頭の宗林寺へ引き渡された。女性信者は、ころの他、二名が罰せられただけで、梅村等の西の丸の女中達は不処分となった。

 当時、将軍家斉は日蓮宗の信者であり、一方、西の丸の世子、家慶は浄土宗の信者で、大奥にはこの両宗の葛藤が渦巻いていた。延命院の処分は、これらの複雑な事情を考慮の上の裁決だったといわれている。

 日潤は巷間では日道といわれていたという。
 斉藤月岑の『武江年表』には日道とあり、『徳川實紀』の享和三年八月に、

 「此月谷中延命院日道僧律を犯したるにより厳科に処せらる」

 とあって、日道となっている。

 延命院は、今もJR日暮里駅近くの西日暮里三丁目にある。
 田端寄りの出口を山手線の内側の方へ出ると、陸橋から続く広い道がある。陸橋と反対方向へその道を行くと、突き当たりが下り坂になっていて、その坂の手前右手に延命院がある。坂を下って行くと谷中銀座に出る。

 不名誉な事件だからか、境内に延命院事件を偲ばせる碑や掲示板はない。(墓地には入ってみなかった)

 参道の突き当たりの本堂の右脇に、小さな墓石が二基あり、本堂に近い方の墓石の正面に、「行碩日潤聖人」とある。(もう一基は明治のものだった)
 右面中央に、「享和三癸亥七月廿九日」その下右に、「十一月三日、教善道心者」同左に、「慈正日勇法師 文政十丁亥五月廿七日」
 左面に、「堅持院日深栄之」
 これは墓でなく、供養碑と思われる。

 この延命院事件の後、智泉院(天保十一年)、鼠山感応寺(天保十一、十二年)と、大奥と破戒坊主がらみの事件が続くが、これらはいずれも安董の例に倣って、大奥の女性達の罪は不問に付す裁決となっている。

 延命院事件で、安董は大いにその名をあげた。安董は文化十年(1813)十月に寺社奉行を退任したが、十六年後の文政十二年十月に寺社奉行に再任する。その間、淡路守だった安董は中務大輔になっている。

 安董の再出馬は、仙石騒動が起こり、その裁定の爲、将軍家齊のお声がかりだったという。その安董を詠んだ川柳がいくつかある。

 「古いたち又出て寺を騒がせる」
 「てんのなす災ひなどと芝でいひ」

 いたちとか、てんというのは、有名な脇坂家の槍鞘のことである。それらは雌雄のてんの皮で作られた対の槍鞘で、曾って足利尊氏が所有していたという由緒ある物である。それを先につけた二本の槍を駕先に立てての脇坂家の大名行列は有名だった。川柳にも、

 「いたちを対々に振らせるは脇になし」
 「貂二匹輪違ひに尾を振って見せ」

 輪違いとは、脇坂家の紋所の輪違いをひっかけていったものだ。

 話を前の「古いたち」と「てんのなす」の句に戻す。これらは、延命院事件で名をあげた安董が再び寺社奉行に帰り咲いたことで、寺の坊主達が恐懼しているさまを詠んだもので、仙石騒動とどう関係があるのか、不思議に思っていた。第二句の「芝でいひ」というのが、何故芝なのか、ひっかかっていた。安董の屋敷が近くの汐止めにあったからか、(安董は汐止亭丸丸という狂名で狂歌を詠んだ。丸丸は輪違いの紋をいっている)と不審に思っていたが、これらの川柳が芝増上寺の事件に関係したものと分かり納得がいった。文政十二年(1829)の序文がある『巷街贅説』の二之巻に、

 「浄土宗門檀林の内、取締宜からず、無格の色衣をゆるし、其外不埒事ありて、御吟味により、今年(文政十二年)丑の十月廿四日、脇坂中務大輔安董朝臣、御奏者番寺社奉行加役再勤、被蒙仰御吟味の上、芝増上寺大僧正宝誉、俄に隠居被仰付候一件に付、新田大広院自害ありて、追々御調相済、翌寅年三月八日、増上寺隠居宝誉、再住被仰付候」

 とあって、次に「古いたち」と「てんのなす」の二句が載っている。
 仙石騒動は、但馬出石、五万八千石の仙石家の御家騒動である。

 仙石騒動は小説などにも書かれていて、比較的よく知られているし、概略を書くにしてもかなりの紙数を要するので、省略させて貰うが、主人公の忠臣、神谷轉(かみやうたた)が虚無僧に身をやつしていたことから、寺社奉行(安董)の関係するところとなり、幕府の最高裁判所ともいうべき評定所(ひょうじょうしょ。老中、大目付、三奉行で構成する)の裁断となった。

 安董は厳正な審理を進め、幕吏の不公正な処置も残らず洗いあげた。それによって、事件は急転直下解決した。(稲垣史生編『武家編年事典』)時に天保六年十一月だった。

 この時、安董の下役として活躍したのが川路聖謨(かわじとしあきら)で、その後、安董の推挙により、出世街道を歩くことになる。
 その二年後の天保八年に、安董は外様大名として初めて老中に昇進する。

 安董は徳川時代屈指の能吏だったといえるだろう。
 安董は天保十二年(1841)に死んだ。享年八十六才(数え)だった。

 前回(第十九回)、初代の尾上松緑について触れたが、元祖松緑は大変ユニークな役者だった。この五月には、松緑襲名の興行があるようなので、次回はもう少し詳しく元祖松緑について書くことにする。

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