第19話 『「重ね扇」その一、尾上菊五郎』

 小唄の「重ね扇」は

 「重ね扇はよい辻占(つじうら)よ。二人しっぽり抱き柏、菊の花ならいつまでも、活けて眺めている心、色も香もある梅の花」

 という唄である。
 この唄は、五代目尾上菊五郎と彼の大阪の愛人、辻井梅とのことを唄い込んだものといわれている。

 重ね扇に抱き柏は音羽家の紋で、その昔、三代目菊五郎が細川侯の邸に参上した時、ちょうど端午の節句で殿様から扇に柏餅を載せて出されたのを自分の扇に受けて頂戴したのに因んで、以後「重ね扇に抱き柏」を尾上家の紋にしたという。(『江戸小唄』木村菊太郎著)

 文化十四年(1817)八月、江戸中村座で尾上松緑三回忌の追善狂言「追善累扇子」(ついぜんかさねおうぎ)で三代目菊五郎が七役を勤めた時、出来た唄が、

 「重ね扇はよい辻占よ、二人しっぽり抱き柏、こちゃ命でも何のその」

 で、この唄は文政の初年にかけて江戸と上方で流行したようだ。『浮れ草』という文政五年(1822)に出た当時の流行の俗謡を集めた本にも載っている。

 三代目菊五郎は後で詳述するが、初代松緑の養子だったので、「追善累扇子」は文化十二年に七十一才(数え。以下同じ)で亡くなった養父の追善興行だった訳である。

 今年、現辰之助が四代目松緑を継ぐことになっているが、初代の松緑は延享二年(1745)生まれで、元祖菊五郎の門人だった。尾上佐之助から春五郎、後に紋三郎となり、文化六年(1809)松緑と改名した。二代目松緑は、現辰之助の祖父だった我々もよく知っている松緑で、三代目は松緑を襲名することなく若死にした父親の前辰之助に追号するとのことだ。

 さて、『浮れ草』だが、この本の編著は松井譲屋となっている。譲屋は松井幸三の俳号で、幸三は二世瀬川如皐や四世鶴屋南北(大南北)との合作もある著名な歌舞伎の狂言作者である。しかし、この松井幸三は文化十二年に亡くなっているので、『浮れ草』の編者は、文政五年の刊行ということからして、二世松井幸三と考えられる。

 二世幸三は初代の弟子で、初め長唄の囃子方で杵屋和蔵といった。大南北の下で同じく狂言作者として働き、主として唄や浄瑠璃によい作品を残しているようだ。(例えば、清元「累」など)
 三升屋二三治によれば、この二世幸三は吉原揚屋町に住み、たいこ持ちのように暮らしていた、という。
 そんな男だったから、流行の俗謡にも委しく、『浮れ草』のような本を編んだのだろう。

 英十三著の『邦楽名曲選、小唄』によると、幕末の『二葉松』という俗謡集に、

「重ね扇はよい辻占よ、二つ巴を抱き合わせ、菊の花ならいつまでも、活けてそのまま置く心、飛んで薫りし梅の花」

 という唄が載っていて、この唄と『浮れ草』の唄を合わせて、明治になってから永井素岳(書家。邦楽に通じていて音楽学校の邦楽調査員をしていた。大正四年没、六十七才)が、五代目菊五郎と辻井梅の関係を詠み込んだ今のような唄にしたのだという。

 初代尾上菊五郎は亨保二年(1717)の生まれで、尾上多賀亟の門弟の左近の弟子という。亨保十五年、京都の枡山座で初舞台、元祖沢村長十郎の取り立てで、初め若女形、寛保二年(1742)冬に江戸へ下り、宝暦二年(1752)に立役となった。菊五郎の父は京都、都万太夫座の出方で、音羽屋半七といった。このことから、音羽屋という家号になったようだ。出方というのは劇場で客を席に案内したり、客の用事をたすサービス係である。初代菊五郎は天明三年(1783)、六十七才で没した。

 二代目菊五郎は明和八年(1771)生まれで、幼名丑之助、母は初代菊五郎の後妻で、二代目大谷廣次の娘だった。天明五年(1785)に二代目菊五郎を襲名するが、二年後の天明七年八月、防州三田尻へ興行に向かう途中の船内で発病して急逝。

 三代目は小伝馬町の建具屋辰蔵の子で辰五郎といったが、前出の通り尾上松緑の養子となり新三郎と改名、天明八年市村座で尾上栄三郎として初舞台、その後、文化六年(1809)に松助、同十一年に梅幸、同十二年に中村座で三代目菊五郎となる。その後、嘉永元年(1848)秋に大川橋蔵と改名、同二年、上方からの帰途、掛川宿で病死した。

 四代目は、初めは中村歌蝶といったが、大阪表で三代目の養子となり、天保二年(1831)、栄三郎として江戸へ下り、弘化二年(1845)に梅幸、安政二年(1855)に四代目菊五郎となる。万延元年(1860)没。享年五十三才。

 五代目菊五郎は十二代目市村羽左衛門の次男で、弘化元年(1844)に生まれた。初め、市村座の座主兼役者として舞台を勤めていたが、明治元年(1868)に五代目菊五郎を襲名した。この五代目の母親は三代目菊五郎の次女だった。五代目菊五郎は九代目市川團十郎と共に、「團菊」と称された名優だった。明治三十六年没。六十才だった。
 我々がよく知っている六代目菊五郎はこの五代目の長男である。

 さて、二代目菊五郎だが、二代目は旅興行の途中、十九才で病死したと書いたが、実は人を殺したことから佛門に入って坊主になったという説がある。

 その彼は谷中延命院(えんみょういん)の日潤という僧になった。寛政五年(1793)に延命院の住職、日寿が死んだが、その二年後、二代目菊五郎の日潤が延命院の法燈を継いで住職となった。日潤の陰の参謀は柳全という納所坊主で、元は御家人の次男坊だったが、武家の渡り奉公でさんざん悪事を経験して来た所謂御家人崩れだった。美貌の日潤は忽ち女性信者を魅了し、延命院には大勢の女性信者が詰めかけるようになる。日潤は柳全の入れ知恵で、怪しげな祈祷で女性達を誑かして、彼女達を密室に連れ込んで情交を結んだ。一度関係が出来ると、黙っていても女の方から通いつめる。大奥や大名の奥女中、商人の妻や娘などが佛参を口実に延命院に通い、日潤に身をまかせた。

 西の丸、大奥の中臈、梅村もその一人だった。梅村には、ころという部屋子がいたが、そのころの手引きで延命院へ通い始めた。梅村ばかりでなく、大奥には延命院の功徳があらたかであるという評判が立ち、多くの大奥の女性達が駕篭を連ねて延命院へ詣でた。

 日潤が延命院の住職になったのは、寛政七年三十二才の時で、それから享和三年までの足かけ九年の間に、日潤が関係した女性は五十九人に上ったという。
 二代目菊五郎の伝は、関根只誠の『名人忌辰録』を参考にしたが、天明七年に十九才で死んだとすると、明和六年(1769)生まれで、寛政七年には二十七才になり、五才程の差がある。

 さて、延命院の建物だが、三階建てでどんでん返しや隠し戸、抜け道などが付いた密室がいくつもあったという。

 しかし、その延命院の全盛もそういつまでも続かなかった。
 巷間に延命院のいかがわしい噂が広まり、大奥の女中達の頻繁な延命院通いが寺社奉行の注意を引くようになる。

 所謂延命院事件の発端であるが、その後のことについては、次回で—-。

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