第18話 『源頼政と扇の芝』

 鵺(ぬえ。鵼とも書く)退治で有名な源三位(げんざんみ)頼政とは、位が三位だった源頼政のことだが、鵺退治の頃はまだ兵庫頭で、三位にはなっていない。

『平家物語』(巻四の「鵺」)によると、近衛天皇の仁平(1151~1154)の頃、毎夜、天皇が何ものかに怯え、気を失われることがあった。夜毎、東三条の森の方から一むらの黒雲がやって来て御所を覆うと、必ず天皇が怯えられた。当時兵庫頭だった頼政が勅命を受けて、猪早太(いのはやた)という家来一人を随えて夜、宮中に参内して待っていると、やがて黒雲が御殿の上を覆い始めた。

 頼政がきっと見上げると、雲の中に怪しいものの姿が見えた。頼政が持っていた重藤の弓に矢をつがえて射ると、手応えがあって何か落ちて来た。猪早太が駆け寄って刀で続けざまに九回刺した。人々が火を点してよく見ると、頭は猿で胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の怪物で、鳴き声は鵼に似ていたという。天皇は御感のあまりに、「獅子王」という御剣を頼政に賜わった。

 その変化(へんげ)のものの死体は丸木舟に入れて流したという。

 『平家物語』には、更に二条天皇の応保(おうほう。1161~1163)の頃、鵼という怪鳥が宮中で鳴いて、しばしば天皇の御心を悩ました時、召された頼政が闇夜の中で鏑矢を放ち、その音に驚いて鳴き声を立てた鵼を二の矢で射落とした話が出ている。

 俗に「鵺退治」というと、前者を指していっているようだ。しかし、『平家物語』ではその怪物の鳴き声が鵼に似ていたとは書いているが、それが鵼だとはいっていない。ただ、変化のものといっているだけである。そこへ行くと、後者では、鵼という化鳥(けちょう)、と書いてあって、確かに鵼そのものである。(鵼とは虎つぐみという鳥だという)。

 この二つの話は元々一つの話で、闇夜に鳥を射落した(『十訓抄』)というようなことが、違った話として伝承されたのかもしれない。

 源頼政は、あの大江山の酒呑童子を退治した源頼光の五代目の子孫で、長治元年(1104)の生れで、父は兵庫頭仲政である。頼政は初め白河法皇に仕えて、 その後、蔵人、兵庫頭、京大夫を歴任した宮廷武士だった。

 保元の乱(1156)、平治の乱(1159)で、源氏の武士団がほとんど離散壊滅した中で、頼政一人は両乱共、勝ち組について生き残ったのだが、その功績に対して報われることが少なかったようだ。

 昇殿は保元の乱の前の保元元年三月に許されたが、昇進は遅く仁安二年(1166)の正月に従四位下となり殿上人の仲間入りを果した。六十三才(数え年。以下同様)の時である。

 『平家物語』には、「保元の合戦の時も、御方にて先を駆けたりしかども、させる賞にも預からず。又平治の逆乱にも、親類を捨てて参じたりしかれども、恩賞是疎かなりき。大内守護にて年久しうありしかども、昇殿をば許されず。年闌け齢傾いて後述懐の和哥一首詠うでこそ昇殿をばしたりけれ」(巻四」)とあり、その歌は、

 「人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月をみるかな」

 この歌によって昇殿を許され、正四位下で暫くいたが、三位を願って、

 「のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐを捨ひて世をわたるかな」

 と詠んで、今度は三位に昇進したという。
 椎(しゐ)と四位が、かけ言葉になっている。

 このことから、江戸川柳では、

 「もう一首ねだると二位になる所」

 と、うまいことをいっている。

 これらは、話としては面白いが、事実は全く違うようだ。頼政が正四位下になったのは承安元年十二月で、内裏の失火を防いだ功によるもので、三位になったのは平清盛の推挙によってだった。

 右大臣、九条兼実の日記『玉葉』(別名を『玉海』ともいう)の治承二年(1178)十二月二十四日の条に、「今夜頼政三位に敍す。第一の珍事也。是入道相国(清盛)の奏請と云々」とあって、清盛の状には、源氏の勇士は多く逆賊として殃罰を受けたが、独り頼政は性質が正直で勇名が世に聞こえているのにも拘わらず、まだ三位になっていなくてかわいそうだ。まして今、重い病の床にある。

 「黄泉に赴かざる前特に紫授の恩を授けむてへり」

 と認めてあったという。時に頼政は七十五才である。
 この話からすると、その頃まで清盛と頼政の関係は比較的うまく行っていたようである。

 頼政が平家を敵視するようになる事件については『平家物語』の巻四の「競」(きおう)に出て来る。
 頼政の嫡男の仲綱は「木の下」という名の鹿毛の馬を持っていたが、「木の下」は評判の名馬だった。その馬を平宗盛が欲しがって、再三にわたって所望の手紙を出し、それが日に七、八度にもなった。頼政はそれを聞いて仲綱に、そんなに欲しがっているのなら、くれてやれ、といった。それで仲綱は仕方なく、次の一首を添えて馬を宗盛の所へやった。

 「こひしくばきてもみよかし身にそへるかげをばいかがはなちやるべき」 

 影と馬の鹿毛とが、かけ言葉になっている。この歌は『源平盛衰記』では、宗盛が最初に「木の下」を所望して来た際に仲綱が断った時の歌としてある。

 「木の下」を自分の物にした宗盛は、「確かにいい馬だが、素直にさし出さず、さんざん惜しみやがって憎らしい奴だ。奴の名前を焼き印にしてつけろ」

 といって、仲綱という焼き印を「木の下」につけて、客が来ると、「仲綱めに鞍を置いてひき出せ。仲綱めに乗れ。仲綱めを鞭で打て」
 と、これ見よがしにいった。

 それを聞いて仲綱は、権柄ずくで愛馬を奪われたことだけでも腹が立つのに、
更に自分を嘲笑するような宗盛の仕打ちに腹の中が煮えくり返った。頼政も、「何をやっても、我々には何の手出しも出来ないとタカをくくっているが、いまに見ていろ。時機をみて、きっと目にもの見せてやる」

 と憤慨したという。宗盛が仲綱の馬を欲しがったのを知って、そんなに欲しがるのならやってしまえ、と仲綱にいったのは頼政だったが、そうした頼政の対応の仕方に、平氏全盛の世にあって唯一人、源氏の武士として身を処して来た彼一流の世渡り術を見るような気がする。この「木の下」の事件だけが、頼政謀反の直接原因になったとは考えにくいが、大きな動機の一つにはなっただろう。

 頼政が以仁王(もちひとおう)を奉じて兵を挙げたのは、治承四年(1180)のことである。

 頼政は、全国の源氏に以仁王の令旨を伝える計画を立て、新宮十郎義盛(源為義の末子。後に名を行家と改める)を秘密裡に東国へ向かわせる。しかし、熊野の別当、湛増(たんぞう)がどこからか、そのことを知って都へ注進に及んだ。(湛増については、いずれ回を改めて書くつもりである。)

 頼政からの知らせで謀反が露顕したことを知り、以仁王は女装して都を脱出して三井寺へ入る。

 『平家物語』の巻四の「競」(きおう)には、「木の下」の事件に続くエピソードが載っている。

 競というのは、頼政の家来の渡辺源三滝口競という者である。彼は頼政の軍勢に馳せ加わらずに都に残って宗盛の家来になる。競は頼政に仕えていたが、宗盛の所にも出入りしていたのである。競はうまい受け答えで、すっかり宗盛の気に入られる。夕方になって、競は「頼政は三井寺にいるそうですが、討手 をさし向けられるでしょう。」と宗盛にいった。「敵は三井寺の僧兵、それに私のよく知っている渡辺党の奴らで大したことはありません。私が出て行ってめぼしい敵を討ちとって来ましょう。しかし、私はいい馬を持っていたのですが、盗まれてしまい、今は馬がありません。何卒、馬を一頭、お下げ渡し頂きとうございます」といって、宗盛から、秘蔵の煖延(なんりょう)という白葦毛の馬を貰って帰ったが、夜になると屋形に火をかけ、煖延に乗って三井寺に馳せ参じた。

 そして、仲綱に、「これを『木の下』の代わりに取って来ました。さしあげましょう」といったので、仲綱は大喜びして、さっそく煖延の尻尾とたてがみの毛を切り落し、焼き印をして六波羅へ返してやった。煖延が帰って来たというので宗盛が出ていって見ると、「昔は煖延、今は平宗盛入道」と焼き印がしてあった。宗盛はカンカンになって怒ったが、煖延の尻尾やたてがみの毛は生えず、焼き印も消えなかった。

 以仁王は三井寺を出て奈良へ落ちて行く途中、宇治の平等院で休息している時、平家の大軍が追いついて激しい合戦となった。
 この戦で頼政は左の膝口を射られ、もはやこれまでと思い、渡辺長七唱(わたなべのちょうじつとなう)に「我が頸を討て」と命じたが、唱が「生きておいでになる内は私には打てません。御自害なさった後に打ちましょう」というので、頼政は、

 「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける」

 と辞世の歌を詠んで、太刀の先を腹に突き立て、うつぶせに太刀に貫かれて死んだ。唱はその首を打って、泣く泣く石にくくりつけて宇治川に沈めた。
 治承四年五月二十六日、頼政七十七才だった。

 能の「頼政」は、この平等院での頼政の最期を題材にした修羅物で、「実盛」「朝長」と共に三修羅といわれる、能では重い曲だ。
 型通り、諸寺巡礼の為、奈良へ向かう旅の僧が宇治の里へ来かかると、老人が現われて僧に声をかけ、平等院に僧を連れて行く。

 平等院の扇の芝の前で、「源三位頼政合戦にうち負け給ひ、扇を敷き自害し果て給ひし所なり。されば名将の古跡なればとて、扇の形に取り残し今も扇の芝と申し候」

 と述べ、頼政の自害はちょうど今月の今日にあたる、と自分が頼政の幽霊であることを示唆して去る。
 後ジテは法体に甲冑姿の頼政の霊が現われて、その合戦の有り様を語る。

 宇治の平等院の赤門を入った左の観音堂の脇に、扇の芝と称する三角形の囲いがある。
 扇の芝のくだりは『平家物語』にはない。

 何故そこが頼政終焉の場所と特定出来たのか、理由はよくわからない。

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