第17話 『佐竹の人飾り』

 家紋の起源は、平安時代、牛車の所有者を明らかにする為に付けたのが初まりというが、自分の所有物を他人の物と区別する為に独自の印を付けることは、かなり昔からあったと思われる。紋はそれらが美化され、図案化されて出来たものだろう。

秋田藩二十万五千八百石の佐竹家の紋所  図は秋田藩二十万五千八百石の佐竹家の紋所である。五本骨の扇に月丸で、日輪ではない。扇の紋の種類は多いが、扇を最初に家紋にしたのは佐竹氏だという。  

 佐竹氏は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光を祖とする名家で、常陸国の北部を領していたが、治承四年(1180)源頼朝が挙兵した時、平家方について敗れ、支配地を失ったが、文治五年(1189)頼朝の奥州討伐の軍に加わって藤原泰衡と戦った功により旧所領の一部を安堵されて命脈を保った。その後、承久の変に軍功を立て、以後徐々に勢力を盛り返して室町時代には常陸守護職となる。しかし、関ヶ原の合戦の時、西軍に加担したことにより、常陸から秋田へ減封転封となり、以来明治維新まで佐竹家はずっと秋田藩主だった。

 江戸時代、佐竹家の上屋敷は三味線堀にあった。三味線堀は今は埋め立てられて跡形もないが、堀の形が三味線に似ていることから、その名があったという。  
 上野広小路の交差点から春日通りを、本郷とは反対の方角へ歩いて行き、昭和通りを越して更に暫く行くと、右側に佐竹通り商店街のアーケードがあって、僅かにその名を残している。

 さて、佐竹家の扇紋だが、『佐竹系図』には次のようにあるという。

 「秀義別当母戸村別当小三郎藤原能通女。文治五年七月二十一日、頼朝泰衡追伐之時、始テ宇都宮小田橋ニ於テ、頼朝に見ユ。秀義ノ旗、頼朝ノハタニ同ジキニヨリ、五本骨ノ月丸ノ扇ヲハタニ結付テ代々ノ家紋トナル」

 又、『別本佐竹系図』には、「家紋隆義迄ハ、白旗也。秀義之時、従頼朝始而賜此紋也」
 『佐竹系図』の日付とは違うが、『吾妻鏡』の巻八の文治五年七月二十六日の所に、

 「廿六日、甲申、令立宇都宮給之處、佐竹四郎自常陸国追参加、而佐竹所令持之旗、無文白旗也、二品令咎之給、與御旗不可等之故也、仍賜御扇出月、於佐竹、可付旗上之由被仰、佐竹随御旨付之云々」

 とある。書いてあることに多少違いはあるが、頼朝と同じ白い旗の旗印ではいけないからと、頼朝が月丸(出月)の扇をくれて、佐竹の白旗の上に付けろといい、佐竹秀義がそれに随ったということだ。頼朝は扇を与えただけで、別に紋をくれた訳ではないが、このことに因んで、佐竹家では月丸の扇を家紋としたのだろう。

 三味線堀の佐竹家で有名なのは、正月の人飾りである。
 三田村鳶魚の「お大名の松飾り」(『江戸の春秋』)に、

 「佐竹の三味線堀の上屋敷では、元朝から七日まで表門外の敷石の上に、左右二側に足軽三人ずつ、行儀よく立っている。いかなる来賓に対して会釈もせず辞儀もしない、棒立ちに立ったまま、身動きもせずに、往来を見張っている。これが人飾りといって、松飾りの代わりなのであった。勿論半刻替りというから、今の一時間交替で勤めたのである。」  

 なんでこれが年ごとの定例になったのかというと、寛永十四年(1637)の天草四郎の島原の乱の時、島原の乱はその年の十一月九日に始まり、翌寛永十五年二月二十七日に終わったのだが、最初幕府軍の旗色が悪く、正月には総大将の板倉重昌が戦死している。討手として出かけて行った家々の者は正月の用意どころではなく、佐竹家でも只管島原からの便りを待ちかねて人を門の外まで出して一刻も早く音信を得ようとしていたところ、元日の夕刻になって、一同無事という吉報を持った使者が到着したという。

 このことから、往時を偲んで正月には足軽を門前に出したのが、佐竹の人飾りで、江戸の名物の一つだった。

 しかし、佐竹家では他に正月飾りを全くしなかった訳ではなく、門外にはしなかったが、玄関の左右には葉付きの竹を三本ずつ立てていたという。

 鳶魚はこの他に、将軍家から毎年門松を拝領するのが定例になっていたという磐城平五万石の大名、安藤対馬守や旗本の松平九郎右衛門の名を挙げている。  変わった正月飾りとしては、宗対馬守の家の松の代わりに椿を使った椿飾りがある。

 鳥越の松浦壱岐守(平戸、六万千七百石)の家では椎の木の枝と竹を立てたという。(以上、三田村鳶魚『江戸の春秋』)

 椎の木というと、本所七不思議にも出てくる椎の木屋敷の松浦家は、この松浦家ではなく、同じ松浦でも平戸新田一万石松浦豊後守の屋敷で、隅田川の本所側の川岸、有名な首尾の松の対岸にあった。『甲子夜話』を書いた松浦静山は鳥越の方の松浦家の藩主だった。

 また、肥前佐賀三十五万七千石の鍋島家では、藁でこしらえた鼓を飾った。世間では、これを鼓の胴飾りと呼んだという。

 丹波綾部一万九千五百石の九鬼家の屋敷は八丁堀にあったが、門松に付けた 「蘇民将来子孫門」と書いた札が有名だった。中国の蘇民将来の故事から、その札をもっていると災難を免れるといわれていたらしく、松飾りがある七日まで毎日夕方になると人々が集まって来て、門が締まるやいなや、その札を奪い合ったという。

 幕末には、「江戸に二つないもの」「江戸に一つ物」といった番付スタイルの刷り物がいくつか出ていて、その中に、佐竹の人飾り、宗家の椿飾り、九鬼家の「蘇民将来」の札などが載っている。

 話がちょっと逸れるが、その番付の中に、「本所割下水御紋付」というのがある。これは本所割下水の御家人、松平九郎左衛門のことで、百五十俵の御目見え以下の身分でありながら、三葵の紋を付けていた。最近テレビのシリーズに出てくる松平斬九郎などというのは、この松平九郎左衛門から思いついたのかもしれない。

 将軍家から毎年門松を貰っていた松平九郎右衛門の名前から、松平九郎左衛門を思い出して、話が脇に逸れてしまった。
 以上、佐竹の人飾りから始めて、主に大名家の変わった正月飾りについて書いてきたが、町方では何といっても吉原の背中合わせの松飾りが有名だ。

 清元『北州』の文句に、

 「霞の衣ゑもん坂、衣紋つくろふ初買いの、たもとゆたかに大門の、花の江戸町京町や、背中あはせの松かざり」

 『北州』は本名題を『北州千歳寿』といい、作詞は、かの大田蜀山人で、節付けは、『梅の春』と同じく、川口お直という。蜀山人については説明するまでもないが、作曲の川口お直は初代延寿太夫の高弟で、元は吉原の芸者で、後に橋場へ「川口屋」という料理屋を出して女将となった。美人ではなかったが、三味線がうまく、「猫」という渾名だったという。

 吉原の門松は、道の中央の溝(下水溝)の所へ自分の家の方に向かって立てるのである。道の両側の家が夫々同じようにするので、門松が溝を挟んで背中合わせになる。それが背中合わせの松飾りである。
 宮内好太郎編の『吉原夜話』には、仲の町の背中合わせの松飾りの挿画(三谷一馬画)が載っている。その松飾りに雨がかからぬよう傘を三本並べてかけたようで、その「正月松飾りの上に飾る傘」の画も出ている。

 『北州』の文句を解釈しながら廓の四季について詳説した『吉原の四季』(瀧川政次郎著)には、背中合わせの松飾りは、狭い道での通行を妨げないようにそうしたので、道幅の広い仲の町では見られないと書いてあるが、どんなものだろう。初めは狭い道だけでやっていたものが、やがて廓中の風習となったものか。

 〆の一句  
   松飾り後ろをむける別世界

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