第16話 『明治の芝居小屋と伊藤晴雨』

伊藤晴雨

堅い話が暫く続いたので、年末でもあり、ちょっと砕けて昔の芝居の話をとりあげてみた。

画家の伊藤晴雨(1882~1961)は十才(数え)の時、母親に連れられて本所二ツ目の相生町五丁目にあった寿座という芝居小屋で、初めて芝居を見たという。明治二十四年六月十日のことである。

晴雨は、昭和二十二年に『自画自伝』と題して、二度目の妻、佐原キセと同棲を始める大正八年頃までの前半生を、題名の通り絵入りで綴っているが、絵は勿論、晴雨自身が描いている。

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芝居小屋


「芝居小屋といって劇場なんて云わなかった時代ですから芝居見物といふ事が普通一般の家庭にとっては大変な事でした。

本所二ツ目に寿座という芝居が有って、座主を三浦小次郎といって定紋は丸の中に三ツ引きの櫓紋、出勤俳優は座頭格が市川九蔵后之(ノチノ)団蔵で、市村羽左衛門の父であった市村家橘が書き出し、外に中村伝九郎、岩井松之助、後の沢村源之助、当時沢村清十郎等々であった。

狂言は一番目が『吉田御殿招振袖』五幕、中幕が九蔵の出し物で盛衰記の渡海屋で九蔵の碇知盛が非常な評判でした。二番目が俗に新聞物と称へた所謂三面記事から脚色した当時実在の芝神明の矢場女の殺し場を見せる『当的神明廼掛額』でした。

木戸は入場六銭、外に揚げ代が十二銭位でした。うづらの前の割込席へ座って物に驚き易い少年が創めて見る芝居の内部を如何に物珍しく見たでせうか。

当時の芝居小屋の構造は天井が葭簀張りで折しも夏の事で大キサが六尺以上もあらうといふ大団扇が天井の中央、現在ならばシャンデリヤの下がって居る場所に逆さに下がって居て、之れを糸をつけてバターンバターンと引っ張る度毎に風が出るんです。

まア今日の換気法でせうが其風たるや妙に生温かいもので、それでも当時の見物は満足していたんですから呑気なものです。

勿論まだ小劇場には電気も瓦斯も無く、閉場は夕方で、開演中の舞台の採光は左右の二階座敷の上の窓から日光を取り入れる外、照明装置など薬にしたくもない時代ですから場内は妙に薄暗く、役者は又真ツ白に塗って人形の様に動く外無い様に子供心には覚えて居ます。」


天井の大団扇

『吉田御殿招振袖』という芝居は竹柴賢次の作で、この寿座の上演が初演だったという。

「うづら」というのは歌舞伎の劇場用語で、高土間の後一帯の座席。前に横木二本をを渡してあるのが鶉籠に似ているので「うづら」という。「下桟敷」「うちみす」ともいう。(前田勇編『江戸語の辞典』)

絵の方は版権に触れるかもしれないと思い、ここに載せるのを遠慮したが、天井に大団扇がぶら下がっている寿座の舞台が正面から描いてあり、いろいろ書き入れがしてある。

例えば、右上に、

「明治最期ノ芝居ハ天井ニ大ウチワアリ
 今ノ旋風器ノ如シ
 ナマヌルキ風ニテ心持ワルシ」

団扇の周りには、

「グルグルマワル」「三尺又ハ五尺位?」

左上に、

「引幕ハ左右ニシボリ上ゲテオクコト今ハナシ
 古今ノ変遷ヲ見ル」  

他にもまだ、いくつか書き入れがあるが省畧する。

幕の話も興味深いが、なんといっても天井の大団扇というのが、想像しただけでも愉快だ。寿座は戦災で焼けてなくなったが、それまではあったという。

 晴雨は明治十五年浅草で生まれたが、もの心つく頃に一家は向島に移り住んだ。晴雨の父は彫金師だった。晴雨が子供の頃、琳派の日本画家、野沢堤雨の所へ絵を習いに行っていたことは、前回(第十五回)の四代目露友を書いた中で触れた。

 「七才の頃、半歳斗り、十一才の頃これも半歳斗り、私は小学校の放課後、近所の光琳派の師匠、野沢堤雨といふ人の処へ絵を習ひにやられた。師匠の堤雨さんは八十二才で大正五年に死んだが、(以下畧)」

 これによると、堤雨は大正五年に八十二才で死んだことになっているが、晴雨の四つ違いの弟で彫刻家の伊藤檪堂の『向島にいた人々』には、堤雨は大正六年四月三日に八十一才で死んだと書いてある。忌日まではっきり書いてあるので、前回の四代目露友の稿では檪堂説をとった。

 晴雨が初めて見た寿座の芝居は晴雨に強烈な印象を与えた。殊に『吉田御殿招振袖』の責め場は鮮烈だった。

吉田御殿招振袖


「其吉田御殿奥庭の責場で鬼丸(市川鬼丸)の竹尾といふ侍女が責められる場面は凄婉其物であった。

当時は前述の如く電燈の照明が無いので真ツ白に塗った美しい化粧、それはたしかに徳川時代の鉛を中心にした旧式の白粉で人形の様に白一色に塗りツブした化粧、それに漆のように一糸乱れずに結び上げた高島田の髷が、意地の悪い御殿女中の二人に左右から責められる度に島田の根が段々にゆるんで後れ毛が頬にかかり髷がバラバラになる。

其時間が大変だ。今の様に二ツ三ツ打つと直グ引っくり返って了ふのでは無くって真に自然に髷が壊れる。クヅクヅに壊れるのを打って打って打ちのめす。気絶をすると気附を与えて、又気がつくと打つ。竹尾は口惜しさの余り悪女中の袖を歯で噛むと之れを振り切って又打つ。其時間が凡三十分余もあったろうか。

其時私は子供心にも高島田の美しさと女の責場の美しさがゾクゾク頭脳に浸み込んで了って今日に及び、後日責場の研究と迄発展して了ったのでありました」

「此吉田御殿の責場を見たのが後に私の責場研究に没頭して終に一生の事業として、一部の人々には誤解を招き乍らも終始一貫生涯の研究に日もいまだ足らずとして倦まざる努力を続けつつある原因と基礎を作ったのは実に此一日の観劇にあったとすれば、人生の運命と云ふ可きか又宿命といふべきか、何れにしても不可思議な操りの糸につながれて居るのでは無かろうかと考えて居る」


責め絵の画家としての晴雨の萌芽がここにある。トラウマというべきか。

晴雨のその後

晴雨は子供の頃、野沢堤雨について絵を習ったが、後は独学だった。挿絵画家として入った新聞社で、最初あまりに下手なので、危うくクビになりかけたらしい。

ところが、持ち前の芝居好きが幸いして、たまたま人不足から書くことになった劇評が好評で次第に評判となり、大正元年から六年にかけては『演芸画報』に芝居のスケッチを寄稿する。歌舞伎俳優にも多くの知己が出来たが、中でも六代目梅幸と十五代目羽左衛門とは特に親しかったようだ。羽左衛門は晴雨に絵をならっていて、晴雨に対して師弟の礼をとっていたという。

戦後の晴雨については、専ら責め絵の画家という印象が強い。晴雨は昭和三十六年に死んだ。

芝居の話から大分脱線して晴雨の話に終始してしまった。

今回は、団扇は出てきたが、扇子の出る幕はなかった。まあ、両方共同じような物として勝手にお許し頂いた。

というのも、ホンのウチワ話

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