第15話 『荻江節(その3)』

四代目露友

近江屋喜左衛門の近喜は明治九年に四代目荻江露友を襲名したが、その時、長唄の露友ではなく、荻江節の家元の荻江露友となったのだった。明治十一年頃の新聞には、度々、「荻江の家元」として出てくる。多分その頃、盛んに活動していたのだろう。

川崎市蔵先生の『四代目露友の知られざる側面』には、岡野知十(1860~1932、俳人。荻江、河東について考証した著書がある)の『荻江代々の考証』(筆者未見)からの次のような引用文が載っている。


「神田末広町の茶道具店奈須屋の主人に帙入の本を見せられた。開けて見ると紫塩瀬の表紙で、それには金泥で荻と水が描かれ、全部四冊、順にならべると続き絵になり、朱の小印影には堤雨と読まれる。向島の故野沢老人の筆である。

内容は初巻の式三番にはじまり、四巻の深川八景に終り、すべてが四十六番、御家流の筆つきで、美しく写されているが、目録だけは別筆で、これは梅素玄魚らしい。荻江節の稽古本であった。」

「前にしるした紫表紙の稽古本というのは、近喜の帳場にいた手代の能筆のものに、絶えず写させていたもので、木板になったものではない。

表紙はいづれも紫の塩瀬で、私のは堤雨の絵であるが、露友のものは是真の筆であった。

下谷の小豊が秘蔵のものは、やはり是真の絵であったという。惜しいことには震災で消失した。それで四代目になってからの定本としては、この紫表紙本の四十六番、この番組の末に、追加として深川八景が収録されてあり、これがその時の荻江の全部であった」


稽古本

堤雨というのは光琳派の画家、野沢堤雨(1837~1917)で、向島に住み、その奇行から向島の三奇人といわれていた人物である。俳句、書、華道、茶道、香道にも通じ、遊芸は河東節を好み、二三の作曲もあったという。(伊藤檪亭『向島にいた人々』)

女性の責め絵で有名な伊藤晴雨(1882~1961)や久保田万太郎も子供の頃、堤雨の所へ絵を習いに行っていたという。中村岳陵は堤雨の門人である。

梅素玄魚(1817~1880)は意匠家。今でいえば、イラストも描くデザイナーといったところか。玄魚は明治十三年の二月七日に死んでいるので、最初の奈須屋の稽古本はそれ以前に作られた物で、又その中に『深川八景』があったとすると、『深川八景』の作曲もそれ以前になされたものとわかる。

柴田是真(1807~1891)については説明するまでもないだろう。是真が北川町の近喜の邸によく出入りしていたことは、前に出ていた通りである。

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こうした人達を使って稽古本を作っていたことから、近喜の四代目露友が維新後、それ程零落した生活を送っていたとは思えない。『深川八景』が稽古本に追加として載っていたということは、『深川八景』は新曲であったと思われる。作曲の時期は明治九年の襲名以後から、明治十二年の間だろう。(前出の梅素玄魚は明治十三年の初めに死んでいる)

四代目露友と深川

四代目露友が深川という地に特別な愛着を持っていたことは、想像するに難くない。荻江の家元となって間もなく、自分と所縁が深い深川に関する曲として、『深川八景』を作った、或いは、作らせたのだろう。

『深川八景』の作詞者、作曲者はわからない。四代目露友が作詞、作曲もやったことは、前出の『江戸は過ぎる』にも出ていたが、『深川八景』にどれ程係わったのかは不明だ。

荻江の現存曲、二十四曲についても同じことがいえる。

四代目露友が作曲したという小唄が二曲、今に伝わっている。「来るか来るか」と「堤になびく」で、いずれも露友襲名以前の作といわれている。特に「堤になびく」は作詞も露友のものという。

近喜の四代目荻江露友の晩年についてもわからないことが多い。一説には、旦那、旦那とチヤホヤされた北川町時代の浪費癖が止まず、商売の待合の方もうまく行かなくなって、明治十五年頃、吉原の幇間になったという。

その露友が死んだのは明治十七年で、享年四十九才(数え年。以下混乱しないように年令はすべて数え年とする)だった。露友の妻のいくは、その時、四十才。露友と九つ違いの彼女は、弘化二年の生まれである。

未亡人いく

露友の没後、いくは柳橋で守竹家という芸者置家を営みながら、荻江を教えていたと前に書いたが、自分も政吉という名で再び左褄をとったという。(中川愛氷『河東と荻江』)

成島柳北(なるしま りゅうほく。1837~1884、幕臣。維新後、朝野新聞社長)の『柳橋新誌』(りゅうきょうしんし)の第一編は安政六年に書かれたものだが、当時の柳橋の芸者の名を列挙した中の小妓の所に政吉の名がある。

今日では、水商売の女性の名はすべて源氏名といっているが、源氏名というのは昔、遊女の名を源氏物語からとって付けたことから来ている。芸者の何太郎とか、何吉とかいった男名前は、戦前は権兵衛名といったものだ。

『柳橋新誌』の第二編は明治四年に書かれた。その中に次のようにある。原文は漢文なので、読み下し文を挙げる。

「壬戌(文久二年)の夏、余、柳春三(柳河春三、柳北の友人)と戯れに柳橋二十四番花信評を作る。(中畧)而して当今在する者は唯だ阿幸、菊寿、政吉[今、阿郁(おいく)と称す]、阿蓮、四人のみ」

この政吉の郁を露友の妻のいくとすると、安政六年には、いく十五才。文久二年には、十八才。明治四年には、いくは二十七才になっている。この頃には既に近喜の世話を受けていたものか。政吉から、いくとなったのも、何か関係があるのかもしれない。

露友の没後、再び芸者となるに当たって、いくは、昔の雛妓の時の名を名乗ったと思われる。

森鴎外の『そめちがへ』という短編小説(明治三十年発表)に、いくのことがちょっと出ている。

「芸者といふものはかうしたものと贔屓する人に望まれて、今も歌ふは当初[ソノムカシ]露友が未亡人[ゴケ]なる荻江のお幾が、彼朝倉での行違を、老のすさびに連ねた一節、三下り(以下畧)」

いくは明治三十六年に亡くなった。行年、五十九才。いくの死後、荻江は一時中断する。

それを復活したのは、荻江ひさ、うめの姉妹で、明治四十年、明治座での歌舞音曲大会で、『深川八景』と『八島』を演奏したのが切っ掛けで、荻江は邦楽有識者の再評価を得、今日に及んでいる。

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森鴎外『そめちがへ』(青空文庫)

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