第14話 『荻江節(その2)』

当時の通人達

図は慶応元年の『歳盛記』という本の一部で、当時の通人達を吉原細見風に見立てたものである。(前号の玉屋の図、参照)
慶応元年の『歳盛記』という本の一部で、当時の通人達を吉原細見風に見立てたもの

屋号の所に、大通屋十八とあるのは、三升屋二三治が蔵前の札差の馬鹿遊びを書いた『十八大通』(別名『蔵前馬鹿物語』)から取ったものだろう。右上の最初にある香以とは、いうまでもなく細木香以のことである。

香以が今紀文といわれる程の豪遊の末、家運を傾け、店を義母に譲って隠居せざるを得なくなったのは、二年前の文久二年だったのだが、この本ではまだ筆頭に挙げられている。

香以の下に北川町とあるのが、後に四代目露友となった近江屋喜左衛門の近喜(きんき)こと、飯島喜左衛門である。近喜は深川で玄米問屋を営む豪商で、北川町(後に福住町、今の永代二丁目辺)に住んでいた。

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近喜にまつわる懐旧談

河野桐谷編の『史話、江戸は過ぎる』という本に、近喜にまつわる懐旧談が二つ出ている。それによって近喜の贅を尽くした邸の様子や豪奢な暮らしぶりを偲ぶことが出来るが、主として近喜の芸と近喜自身のことに絞ると、

「露友さんの遊びは、普通の遊び方とは違って平岡大尽(実業家で東明節の創始者)みたような遊び方で、芸妓を呼んでは、一晩中稽古をしてやったりして、したがっていい芸妓でなくては呼びません。それで割合に吝みったれでしたから、花街では鼻つまみだったということです。そうこうしている中に、いけなくなりました。北川町の屋敷を渋沢さんに売って、柳橋のおいくさんの所にはいってしまい、たくさん子供が出来たのです」
(同書、北川町さんの話)

「円朝(名人円朝)は、年中出はいりしておりました。又是真(柴田是真)なども出はいりしておりました」

「当主の露友は、ちょっと学問もあったようだし、端唄も作るしノノ端唄を作っても、芸者などをよんで、すぐ踊りを拵らえるというような風で、芸事にナカナカ熱心でした」

「柳橋に、おいくという踊りの上手な女がありましたが、露友は後にそれを妻君にして没落後、米沢町に大きな待合いを出しました。それで荻江節の家元になって、慰みのように、かたわら教えていました」
(以上、同書、牡丹燈籠のお露さん)

近喜の弟の弁次郎というのが、大変な美男で、この弁次郎が円朝の『牡丹燈籠』のモデルになったという。(お露は飯島平左衛門の娘となっている)

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『月謡荻江一節』(つきにうたうおぎえのひとふし)と『名人くらべ』

円朝が近喜の所へよく出入りしていたとあるが、円朝は『牡丹燈籠』の他にも、荻江節を題材にした『月謡荻江一節』(つきにうたうおぎえのひとふし)と『名人くらべ』の二作品を創っている。いずれも近喜が登場する。

二作共、創作なので、史実と違う所が多いが、近喜の像は円朝が見たままの近喜で、脚色はあまりなかったのではないか、と思う。

円朝の作品に登場する近喜は、為永春水の『梅児誉美』(うめごよみ)に登場する千藤を彷彿させる。『梅児誉美』の千葉の藤兵衛の千藤は、津藤の細木龍池である。龍池は香以の父で、春水は龍池の取り巻きの一人だった。龍池も藤次郎といった。即ち津藤である。

円朝は近喜に対して好意的で、春水の千藤と同様、作中に話の分かる金持ちの旦那として出てくる。

「吉原に家元の判がござりましたが、二代目露友が家元の判を、両国米沢町に江島喜左衛門と申した人がおりましたが、これは元北川町様と申して大したもので、お大名へお金御用を勤め、お出入りをいたしまして、結構な暮らしをいたした人で、その家に荻江の焼印を預けておきまして縁で、四代目露友を相続いたしました」
(『月謡荻江一節』)

江島喜左衛門とは、近江屋と飯島を合わせたもので、明らかに近喜のことである。ここに出てくる焼印は「守」という字の印で実際にあったものという。

「北川町の近江屋喜左衛門という大家の旦那、この人はまことに芸好きでございます。実にえらいおかたで、若い時分から金銀に御不足がないから諸大名へお金御用を勤めました。ただいまあの渋沢栄一様のおいであそばす福住町のあすこが近江屋さんのお宅で、あの河岸を近江屋河岸と申しました。倉庫でずっと取り巻いて、中に普請をなすって庭を広く取り、毎晩御酒をあがるときに出入りの者残らず芸人を呼んで、指物師から大工左官まで出入りの者をずっと五十人ぐらい集めて酒盛りをなすって、いろいろ芸を見たり聴いたりするのを楽しみになすったが、そのくらいだから御自分も、河東節も一中節も上手で、そのうちにも荻江露友に目をかけましたという話は、ただいまに吉原辺りでも口碑[ハナシ]に残っております」
(『名人くらべ』)

近喜が北川町の邸を渋沢倉庫に売り渡したのは明治九年である。同じ明治九年に、近喜は四代目露友を襲名し、東両国の中村楼でその襲名披露をしたという。(柳原緑風『荻江の歴史』)

お開きの曲は『四季の栄』だった。現在、荻江節は二十四曲がつたわっているが、その内の一曲である。

近喜は、北川町の屋敷を売った金で、荻江の家元の権利を買い、同時に米沢町に待合いを建てる資金にしたものと思われる。

近喜雑感

明治維新で多くの江戸の豪商達が倒産没落の憂き目を見ていることから、近喜もその一人と考えられて来た。確かに、広大な北川町の屋敷を維持出来なくなって手放しはしたが、その後の近喜を見ると、ある程度の裕福な生活水準を保っていたようである。

近喜は明治十七年に亡くなった。行年、四十九才(数え)というから、天保七年の生まれである。

近喜と花柳園山三郎との接点はわからない。花柳園山三郎が死んだ万延元年には、近喜は二十四才になっている。遊び盛りの年頃で、当然吉原にも盛んに出入りしていたことだろう。

近喜については、まだ不明のことが多い。誰から荻江を習ったのか、また荻江の家元取得の経緯など。家元の権利は玉屋にあったと思われる。

近喜が露友を襲名するに当たって四代目を名乗ったのは、花柳園山三郎に敬意を表して三代目を追号したのではないか、と筆者は密かに考えている。

近喜の死後、妻女のいくが柳橋で守竹家という芸者置家をやりながら、荻江の稽古を続けた。守竹家の守というのは、前に書いた荻江の焼印の文字である。

このあと、『深川八景』と近喜の妻いくのことを書くつもりだったが、紙数が尽きた。

以下は次回に。

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