第13話 『荻江節(その1)』

故武原はんさん

地唄舞の名手、故武原はんさんは荻江節の『深川八景』がお好きだったと聞く。何度か舞台にかけられ、筆者も一度ならず拝見したことがある。芸者姿の舞いで、振り付けは確か梅津貴昶(たかあき)師だった。

俳人で芸能通のO氏によれば、『深川八景』の終わりの方の「沖の鴎の彼方へひらり、此方へひらり」という所の扇使いが、本当に鴎がひらりひらりと身を翻すようで、何ともいえずよかった、と感嘆しきりだった。

姿も舞いも美しく、申し分なかったのだが、筆者には残念ながらどうしても辰巳芸者には見えなかった。

どうも人間は無いものねだりをするようだ。東京生まれの谷崎潤一郎や吉井勇は上方の文化に憧れ、名古屋の江戸研究家の尾崎久弥は新内が大好きだった。武原はんさんは徳島生まれの阿波美人である。

山彦秀翁の話

荻江節の祖、初代の荻江露友については前に書いたが(第三回)、明和安永の頃の有名な長唄の唄い手で、明和五年九月以降、芝居から遠ざかり、その後は吉原で客の求めに応じてその座敷で唄を披露していたらしい。唄は勿論、長唄とか、当時流行のメリヤス(長唄の短い独吟物)だったと思われる。

露友はそのメリヤスの作曲も手がけていて、山東京傳作詞の『素顔』とか(洒落本『通言総籬』)、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻の作詞『賓頭盧』(びんずる)などの節付けをした(『宴遊・清鶴日記』)ことが知られている。

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初代露友は吉原へ引っ込んで、露友の名を有田栄橘に譲り、泰琳(たいりん)となったが、二代目露友は初代とは実力が格段に劣っていたらしく、安永九年(1780)の『落書当世見立三幅対』という刷り物の「改名していけぬもの」の中に「今の露友」とあるそうだ。

二代目露友は寛政七年(1795)に没したというが、この頃までは特に荻江節というものはなく、長唄の荻江露友だった。

三代目は不明で、明治になって、荻江節の四代目露友が現われる。

その間の経緯について、邦楽研究家の故川崎市蔵氏は、今日荻江の歴史について書かれたものは明治四十一年三月の雑誌『歌舞音曲』に載っている「荻江節の事」と題する山彦秀翁の話が元になっている、という。

それは以下のような記事である。

「吉原の廓内に維新頃迄、立派に暖簾を揚げていた大店で、玉屋というのがありました。此楼主の山三郎が、なかなかの音曲通で、地が芸好きの利けもので、玉屋の旦那が通り名でした。

廓内は遊女屋渡世の外に、引手茶屋とか料理茶屋とかがある。此茶屋の主人や幇間衆や、芸妓の古顔などが寄って、何にか此の廓の流行唄を出したいとの話、其処で山三郎が色々節廻しや、絃の道を調べて、漸く仕上げたのが荻江節なんです。

節は長唄に京唄をつき交ぜて、それをもっと淡白にやったという具合、しかしまア京唄の方が勝っていましょうか。

山三郎が音頭で、社中といふのは男女二十名くらいありました。惜しいことには、山三郎が安政の末か、文久の初めか覚えていませんが病死しました。わか死でしたね」

話し手の山彦秀翁は幕末の河東節の太夫、十寸見可慶の悴の山彦秀次郎で、後に秀翁と称した。可慶は明治四年に亡くなったが、没後九代目十寸見河東を諡(おくりな)されている。秀翁は大正八年七十九才で亡くなる迄、河東節の家元としてその保存と普及に貢献した人である。没年を数え年とすると、天保十二年のうまれとなる。十寸見(ますみ)は河東節の太夫の名で、三味線方は山彦を名乗る。

玉屋山三郎

秀翁の話に出てくる玉屋山三郎は安政七年の『安政文雅人名録』に、「心法  清樹 名直温字楽道 号好文堂又歌山堂 新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎」と載っている。

『安政文雅人名録』は、前に江戸の扇屋について書いたが(第十回)、その扇屋の広告が出ていた本である。

山三郎は、俳諧については不明だが、狂歌は花柳園の号で詠んでいたようだ。当時西川流から破門された西川芳次郎の面倒をみて、自分の号花柳園の花柳を名乗らせたのはこの山三郎で、芳次郎は後の初代花柳寿輔である。

玉屋という妓楼は古く、『青楼雑話』(『吉原雑話』とも)には、元吉原から移って来た店とある。楼主は代々山三郎を名乗った。

玉屋という店は吉原に二軒あったので、山三郎の玉屋の方は江戸町一丁目の角にあったことから角玉屋とか、また暖簾に火焔の模様を染めていたことから火焔玉屋とか呼ばれていたようだ。もう一軒の玉屋庄兵衛の店は江戸町二丁目にあり、此方は静玉屋(しずかたまや)と呼ばれていたという。

安政三年の番組と晋永機

慶応元年の吉原細見(吉原の案内書、筆者蔵)玉屋山三郎の店が出ている部分

図は慶応元年の吉原細見(吉原の案内書、筆者蔵)に玉屋山三郎の店が出ている部分である。玉屋山三郎の名の上に火焔印がついている。この図の山三郎は花柳園山三郎の次代の山三郎である。

山彦秀翁の話を裏付ける資料として、吉原の年中行事の一つ、吉原仁和賀の番組がある。嘉永元年には一中節(宇治)との掛け合いで、また安政三年、五年の仁和賀にも荻江連中が出ている。

筆者蔵の安政三年の番組には、荻江連中の出し物として『花柳春日廼神楽』とあり、出演者は皆、荻江某となっているが、長唄となっていて荻江とは書いていない。詞章を書いた部分の題名の下に、「荻江嗣流 山田清樹」とある。山田清樹とは花柳園山三郎のことである。玉屋が山田姓であることは、先の『青楼雑話』や竹島仁左衛門の『洞房古鑑』にも出ている。

この花柳園山三郎の没年について、川崎先生は晋永機の『万延年中京上り旅日記』の中に次のようにあると指摘されている。

「七月廿七日 大雨巳時過より晴 夜光布
   よし原文音
 七月廿八日 朝雨萩見巳時より晴
       有節亭両吟
   玉屋山三郎を悼み 六月二十五日寂   
    燈籠やことしは※(一字不明)の道しるべ」

俳人晋永機(1823~1904)は文政六年下谷御徒町生まれで、本名穗積善之、別号老鼠堂阿心庵。六世其角堂鼠肝の長男で後、其角堂七世を継いだ。明治三十七年没。享年八十一。

この永機の記事から花柳園山三郎が死んだのは万延元年六月二十五日と知れる。享年はわからない。この時秀翁は十九才である。

細木香以

永機と山三郎が知巳の間柄だったことは確かだ。永機は、今紀文といわれた津藤こと、攝津国屋(つのくにや)藤次郎の細木香以の取り巻きの一人で、妻女は吉原の芸者だった。

香以は初め玉屋で遊び、玉屋抱えの若紫を落籍している。若紫は後に香以の後妻となったふさである。

香以の家は山城河岸の酒屋だったが、文久二年には豪遊の為、遂に産を傾け浅草馬道に隠居を余儀なくされ、翌文久三年には千葉の寒川へ移り住む。一緒について行ったふさが木綿の着物でかいがいしく立ち働くのを見て、昔を知る人々は感心したという。

香以は「針持って遊女老いけり雨の月」と詠んだ。香以は明治三年九月十日に死んだ。享年四十九(数え年)。

その翌年、明治四年十月十日。香以の一周忌にわざと一月遅れて香以の旧恩を被った人々が集まって、本郷願行寺の墓に詣でたという。その中に永機や河竹新七(後の黙阿弥)もいた。

その時、永機は、

「この墓の落葉むかしの小判哉」

と詠んだ。

芥川龍之介はこの香以の縁者だったと森鴎外の『細木香以』に出ている。香以の姉の孫になるということだ。

                          この稿続く

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森鴎外『細木香以』(青空文庫)

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