第138話 『忍術の話(二)、話とパフォーマンス』

 前にも書いた通り、西湖の話やパフォーマンスの順序は全く覚えていないので、以下、思いついたままに書いて行くことにする。

 西湖の忍者としての修行の話は、常識的には素直に受け入れ難い話が多かった。
 例えば、透視力、西湖はそれを千里眼といっていたが、子供の頃からその能力があったという。

 また、跳躍力の修行は、麻の種を播いてその上を毎日飛び越える。麻は生長が早いので日毎に高くなって行くが、それと共に跳躍力がアップしないと、麻の生長に追い付けない。

 忍者の跳躍力は九尺(約二米七十糎)以上ないといけないというが、それを聞いて、走り高跳びにの世界記録はどの位だったか、と考えてしまった。しかし、忍者の場合は競技ではないので、麻の葉に触れることがあっても、それを薙ぎ倒すことなく跳び越せればいいのかもしれない。

 手を指先から砂の中に突き入れる修行については、以前誰だか忘れたが、明治の故老の江戸回想録の中で、武士だった祖父の妻、つまり祖母が「エイッ」という掛け声と共に、二本の指先で傍の板塀に穴をあけたのを見た、と書いてあったのを思い出した。昔の武家の女性の護身術だったと思われる。

 西湖の場合は、その鍛錬法は次のようになっている。

 砂に向かって力一杯、手を指先から突き込んでも、最初は指が痛いだけで手が砂の中まではなかなか入らないが、修練を積むことによって、次第に深く入るようになる。手首まで入るようになったら、砂を砂利に変える。砂利に対しても手首まで入るようになったら、今度は地面に直接、手を突き入れる練習を手首まで入るようになるまで繰り返す。
 それが出来るようになったら、敵の胸に手を突き入れて肋骨を引き抜くことも容易だという。

 隠密は調査の命を受けると、目的地に密かに潜入するために様々な職業の人物に変装する。

 姿形だけを変えても、その職業の人間がやっていることが出来なければ、すぐ化けの皮が剥れてしまう。坊主ならば経が読めるし、放下師ならば踊りや手妻(手品)が出来る。絵描きであれば絵が上手く描けないと可笑しいし、虚無僧であれば尺八を吹く、といった具合に何にでもなれるようにあらゆることに挑戦修行したが、大体忍者は七種類の人物に変装できればよしといわれている。

 目的地の城下に入る時は、その少し手前で左右の着物の袂に同じ数の豆を入れて置き、あまりきょろきょろすると怪しまれるので、歩きながら右に家数が五軒あれば、右の袂の豆を五粒食べ、左に家数が三軒あれば、左の袂の豆を三粒食べるといった風にしながら、城下を通り抜け、人気のない所で左右の袂に残った豆の数を数えれば、街道に面した城下の家並の数がわかる。

 また、城の近くを通る時、これという目測可能な木を見つけたら、その手前で草鞋の紐を結び直すふりをして、その木の頂上と城の天守の頂上が一直線になるような位置から、上を見上げると、三角法から天守の高さを割り出すことが出来る。

 西湖は話の途中で、いくつかのパフォーマンスをやってみせた。
 一つは南京錠を二十個近く持ち出して、施錠してみせ、人の目の前ではずすところを見せることは防犯上、出来ないからといって、後ろ向きになって、アッという間にすべてをはずしてしまった。

 また、手錠を出してきて、人に頼んでそれを自分の両手に掛けて貰い、それも後ろ向きになって数秒の内にはずしてしまった。

 忍者は関節を思いのままにはずしたり、また入れたり出来るといっていたので、どうやらその関節技を使ったものと思われる。
 頭が入れられる隙間があれば、どんな所にでも侵入出来ると豪語していた。

 後先になったかもしれないが、一番彼のパフォーマンスで驚いたのは、その物真似というか、声帯模写だった。

 忍び込んだ先で物音を立てて怪しまれてしまった場合、犬猫などの泣き声をして、そのせいにしてしまうのだが、そのために、犬猫鼠など動物の鳴き声も真似出来るようにしておく。

 そういって、西湖は犬の鳴き声を真似てみせた。
 江戸家猫八など声帯模写芸人がやってみせる犬の鳴き声といったら、一種類だけである。

 ところが西湖は、黒犬、白犬、ブチ犬の小犬などと細かく区別して鳴いてみせた。
 それが正しいのか、どうかを見極めることは実際にその種の犬を飼っている人しかわからないのだろうが、本当にそれらしく聞こえるのにびっくりした。

 新聞紙を丸めて尺八がわりにして、尺八の音模写もやってみせたが、あたかも本当の尺八を吹いているようだった。
 もの真似芸人で尺八の音真似をする芸人もいるが、それよりも西湖の音真似ははるかにリアルで、それは芸というよりもむしろ技能と呼ぶに相応しいものだった。

 戦争中、西湖は、スパイ養成学校として有名な中野学校の教官をしていたこともあったが、中国で諜報活動をやった。
 その中国では随分危い目にも遇った。
 大勢の敵に囲まれてしまった時は、なまじその囲みを強行突破しようなどと思わずに、観念しておとなしくしているように見せかけて素直に縛についた方がよい。そして、連行される途中、隙をみて逃げるのである。
 藤田西湖の講演会で覚えていることは、大体そんなところである。

 その講演後、私はA会に一度も出席したことはなく、やがて、A会の月例会の通知も来なくなった。

 藤田西湖に会ったのは、その時、一度だけであるが、確か、あれは東京オリンピックの年(昭和三十九年)だったと思う。
 日本古武道大会とかいうテレビの中継で、藤田西湖の姿を見た。

 もちろん、他の武道家も大勢出ていたのだが、西湖のことしか記憶にない。
 稽古着、袴姿の西湖は素手で大坂城の石垣を登って行ったり、太い鉄の鎖に大きな鉄の分銅がいくつか付いているものを振り廻しては裸になった上半身の胸板に、ドカン、ドカンと叩きつけていた。

 それが藤田西湖の姿を見た最後だった。

 二、三年前に古本市で藤田西湖の『甲賀流忍者一代記』という本を見付けて購入したことを前章に書いたが、本棚に入れたままになっていた。
 この稿を書くに当たり初めて目を通した。

 甲賀流十四世の忍者、藤田西湖が講師というA会の月例会の案内状を目にした時、すぐに藤田東湖の名が思い浮かび、藤田西湖とは何というインチキ臭い名前だろうと思った。

 しかし、実際に会って話を聞いてみると、真面目な武道家という印象が強かった。
 西湖という号は自分でつけたというが、藤田東湖との比較で、随分印象的には損をしていたような気がする。

 西湖の自著の「おくがき」に、大平陽介という人が「藤田西湖氏と私」と題して書いているが、それによると、明治三十二年浅草生まれの西湖は昭和四十一年一月四日に亡くなった。享年、六十八歳(数え歳)だったという。

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