第137話 『忍術の話(一)、藤田西湖』

 会の名稱は失念してしまったので、仮にA会として置く。
 昭和二十四、五年頃のことである。
 A会の毎月の例会の通知が私の許にくるようになった。

 A会は学校のOBの会だが、すべてのOBに通知を出している訳ではないので、誰かが私を会員に推薦したのか、紹介したに違いないのだが、未だにそれが誰なのか、わからないままになっている。

 会場は今の霞ヶ関会館の所で、勿論、まだ現在のような立派なビルにはなっていない。その玄関を入ってすぐ左手の会議室のような部屋で、二、三十人は十分に収容出来るスペースだったと覚えている。
 会の内容は、毎月講師が替わって、誰それの帰朝報告会といったものが多かった。

 戦後間もない当時は、外国への渡航が自由に出来なかった時代で、政府の役人などになっているOBが公用でアメリカへ出張して帰ってきた土産話とでもいったもので、私は二、三度出席してみたものの、あまり興味がわかないので、そのまま捨て置くようになった。

 A会には入会金とか、年会費などはなく、出席した時に、確か五百円支払ったと記憶している。
 軽い昼食が出て、それをとりながら講師の話に耳を傾けるのだが、その五百円の会費から食事代と講師への寸志を捻出していたのだと思う。

 そのA会から、藤田西湖という甲賀流十四世の忍者が講師という通知を貰って、久しぶりに出かけて行く気になった。

 私が忍者が講師と聞いて興味をそそられたように、他の会員の方々も同様に好奇心をかき立てられたらしく、いつもは十数名しかならない出席者が一気に倍近くに膨れ上がり、主催者の幹事さん達は思いがけなく一挙に増えた人数分の食事の手当に大童で、大そうお気の毒に思ったことを思い出す。

 藤田西湖の話の内容だが、さすがに六十年近くも昔のことで、話の順序や細かいことは忘れてしまったが、断片的ではあるがかなりのことが記憶に残っているのは、やはりその印象が余程強烈だったからだろう。

 初めに、自分が甲賀流十四世の藤田西湖で、本名を勇治と云い、西湖は絵を習った時に付けた号で、忍術の稽古は甲賀流十三世の祖父新之助から受けたと話し始めた。
 父親は警視庁の巡査で藤田森之助といったが、忍者ではなかった。
 しかし、捕縄術の名人だったという。

 西湖の家は代々、幕府の隠密の家だった。
 徳川家康が織田信長の招きに応じて天正十年(1582)泉州堺に遊覧の途上、本能寺の変が起こった。
 これを茶屋四郎次郎が早馬で家康の許に知らせてきた。

 家康はそれを聞いて本能寺に向かおうとしたが、この兵乱で野武士が蜂起し、孤立無援の窮地に陥った。その時、本多忠勝が、ここは何はともあれ、少しでも早く三河へ帰るべき、と進言した。家康もその意見を入れ三河へ戻ることにしたが、その途中も決して安全とは云い難いので、服部半蔵、拓殖三之丞、穴山梅雪などの斡旋で伊賀、甲賀の忍者二百名を招いて警固を頼み、鹿伏兎峠(かぶととうげ)を越え、伊勢の白子浜から海路、三河に戻ることが出来た。

 その縁故から、後の天正十八年(1590)家康は江戸に居城を構えるに及び、服部半蔵以下二百名の忍者を江戸に呼び、召抱えて隠密とした。四谷の伊賀町は伊賀者のいた所、神田の甲賀町は甲賀者のいた所、又、下輩の忍者は麻布の笄町(こうがいちょう)辺に橋を隔てて伊賀者と甲賀者を住まわせた。即ち、甲賀伊賀町というのが笄町になったという。

 以上は、西湖が書いた『甲賀流忍者一代記』という自伝の冒頭の部分を要約した。

 A会での講演でも西湖は家の由緒について語っていたが、何しろ古い話なので固有名詞等は全く記憶がなく、西湖の本を参考にせざるを得なかった。
 西湖の本は、二、三年前に古本市で見つけて買っておいたもので、この稿を書くに当たって初めて目を通したが、思い出すことも多かった。
 記憶が定かでない場合も多々あるので、以下、西湖の本と睨み合わせて書いて行くことにする。

 さて、西湖が自伝に書いている冒頭の部分は、考証的にいって疑問点が多いので、一応はっきりさせておく。

 西湖の家は甲賀流であるから、甲賀衆である。三田村鳶魚は、甲賀者、甲賀衆といった人達が隠密をつとめたことは知らない、といっている。

 甲賀衆というのは同心で御留守居付の者だったと聞いている。隠密などという役をつとめることは決してない。甲賀組というと忍術の本場が江州の甲賀だから、そんなことを引っかけたのだろう、というのである。

 甲賀者というのは、関ヶ原の戦で功があった山岡備前守景友に家康が討死した甲賀者の子孫、与力十人、同心百人と九千石の地を与え、その内四千石を以て士卒の給分に当てたのが今の甲賀組である、と『徳川実紀』にあるという。

 又、神田の甲賀町について、駿河台に甲賀町という町があり、これは甲賀衆が住んでいたから付いた町名というが、甲賀衆が住んでいたというのは疑問である。甲賀町には火消屋敷と旗本衆の邸宅だけで、甲賀衆が火消屋敷につとめていたことはあるが、甲賀衆の組屋敷はなかった。組屋敷を拝領するのは、その組の者だけで、甲賀衆ならば同心である。

 更に、本能寺の変の後、堺から伊賀、甲賀の忍者二百名に守護されて、家康は三河に無事戻ることが出来たとあるが、家康を警固したのは服部半蔵率いる伊賀者二百名で、甲賀者は入っていない。

 服部半蔵には、姉川、三方ヶ原の合戦の時にも戦功があったというが、その後、江戸に招かれて三千石を与えられた。
 半蔵が守った門が半蔵門ということはよく知られている。

 こうしてみると、甲賀者が隠密をつとめていたという事実はなさそうで又、伊賀者についても鳶魚は、江戸に招かれた伊賀者は同心として、いろいろな役目についたが、間諜として働いたのは江戸の初期、といっている。『旧事諮問録』に、諸藩の支配地に姿を変えて入り込んだりする隠し目付は何ですか、という問に対して、御小人目付です、といっている。又、将軍の隠し目付の御庭番は、という問には、あれは目付の支配ではありません、と答えている。

 御庭番というのは将軍直属で、八代将軍吉宗の創始という。
 従って、隠密役と云えば、御小人目付か、御庭番のどちらか、ということになるが、西湖の書いたものからはわからない。

 西湖は歴史家でも考証家でもないのだから、家の来歴や由緒など、云い伝えをかじっているだけで曖昧なのは仕方がないのかもしれないが、あまり話が違うので、ちょっと出端を挫かれた感がある。

 しかし、A会での西湖のパフォーマンスはなかなか刺戟的で、ユニークなものだった。

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