第136話 『柳橋芸者(三)、塚原昌義』

塚原重五郎という名は一般の人名事典には載っていない。

幕末、維新に関する人名事典には、出ているものもあれば、出ていないのもある。

吉川弘文館と東京堂のものには、その名があったが、同じような内容なので、吉川弘文館(『明治維新人名事典』)の記事を引用させて貰う。

「塚原昌義(つかはら まさよし)
諱、昌義、稱、藤助、治左衛門、重五郎。但馬守、若年寄、三〇〇俵、柳の間。
安政三年(1856)十月外国貿易取調掛に任ぜられ老中堀田正睦を助け、以後、主として外交面で活躍した。すなわち安政六年九月外国奉行支配調役の時、日米通商条約批准交換のため、わが国最初の海外派遣使節に随行を命ぜられた。その後外国奉行支配組頭、徒頭を経て、文久二年(1862)九月目付に任ぜられ、同年十二月講武所頭取に転じ、大砲組与頭を経て、元治元年(1864)八月再度目付となる。この間、幕府は横浜鎖港談判使節池田長発一行の結んだパリ約定の廃棄を宣言し、再び使節をパリに派遣することになり、その目付に任ぜられたが赴かずして終った。慶応元年(1865)二月大目付となり、翌年九月英国駐劄公使に選ばれたが、これまた赴かずに終った。その後も慶応二年(1866)十月外国奉行、勘定奉行兼帯、翌年6月外国総奉行並、十月外国総奉行、十二月若年寄並、外国総奉行兼帯と外交の第一線にあった。一方、内政面にあっては長州処分に厳しく臨み、慶応三年(1867)六月には兵庫開港に備えて商社を設立し、貿易発展を策すべきを建議するなど、幕府の富強を図り、さらに明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いにあっては副総督として全軍を統率するなど、小栗忠順と共に親仏の幕府内強硬派であった。ために同年二月徳川慶喜より免職、登営停止の処分を受けた」

以上で、重五郎の生没年も書いてない。

東京堂の事典にも、「生没年不詳」と出ている。ただ、部屋住みの時に召し出されて書院番になったとある。

書院番というのは小姓組と共に御両番といわれ、旗本でも上流の将軍の側に仕える近衛兵といった役である。

渋柿園が書いている塚原重五郎のエピソードによると、重五郎は日光奉行をしていたことがあったようだが、そのことについての記載はいずれの人名事典にもない。

日光奉行は老中支配で、日光東照宮の警備と祭礼のほか、日光の民政、上野、下野の訴訟を取扱った。芙蓉の間席で、諸大夫で旗本の職だった。二千石高の職で、文化元年(1804)の武鑑によると、それに御役料五百俵とある。

定員三名だったというが、幕府直轄地の奉行であり、数ある奉行職の中でも要職といえそうである。

渋柿園が書いている、「例の筑波一揆」というものから、その時期を推定しようと思って調べたが、筑波というと天狗党の事件しか思い浮かばない。

とすると、元治元年(1864)のことになってしまう。

渋柿園によると、「重五郎はやがて日光奉行から種々の役を経て、後に外国の調役(しらべやく)になった」とあるので、安政三年十月に外国貿易調掛になる以前の話でないと可笑しい。

この件については、更に調べてみないとわからないが、この一件の重五郎の対応対処が評価されて、新しく生じた外交関連の役職に抜擢されたのかもしれない。

重五郎は外国奉行支配調役の安政六年(1859)九月、日米通商条約批准交換のため、米国に行くわが国最初に海外派遣使節の随行を命ぜられた。

正使は新見正興、副使は村垣範正、監察は小栗忠順。

一行はアメリカ船ポーハタン号に乗り、万延元年(1860)正月十六日に品川出港。閏三月、パナマ地峡を汽車で横断。四月三日、ワシントンにおいて批准書交換を果たし、帰途は大西洋、印度洋を経由して、九月二十七日に品川に帰港した。

勝海舟はこの時、咸臨丸で使節一行と一緒にアメリカへ渡った。

以下、渋柿園の「幕末の江戸芸者」の続きを挙げる。

「(重五郎は)その後亜米利加へ行く事となたので、私も其時家の者に連れられて赤城下の重五郎の屋敷で催された宴会に臨んだ。それは丁度私が十一歳の折であった。
行って見ると多勢重五郎の同僚が列んで居た。酌人も十五六人居て中々賑やかであったが、其中に臈たけて美しいと幼な心にも思った一人の女がゐた。多くの酌人は皆其人を敬って丁寧に話をしかける。今で云ふ幇間役の御坊主は追従じみた事を云って、切に其女の御機嫌を取って居た。それから程なく盃が廻って此女は酌人の弾く三味線に連れて、何か唄を小声で唄ったが、それは何の唄であったかよく覚えて居ない。列座の人々は盛に手を拍って其唄ふのを褒稱(ほめはや)した。
宴は今の時間で三時間程続いたが、此美人は其間に三四度派手な着物を着替へた。連弾(つれびき)の酌人は座を共にするのを身に過ぎたる光栄と悦んで居る模様であった。
後で私が此女の素性を聞くとこれが柳橋の芸者であった」

この文章から、この赤城下の重五郎の屋敷で催された宴会は、重五郎が日米通商条約批准交換のためにアメリカへ派遣される使節に随行して海外へ出発する、その歓送会だったと思われる。

赤城下とは牛込の赤城神社がある赤城元町の西隣の町で、そこに重五郎の屋敷があったようだ。

渋柿園がこの宴会に連れて行って貰ったのは十一歳の時だったとあるが、渋柿園は嘉永九年(1848)の生まれであるから、十一歳というのを数え歳とすると、安政五年(1858)のことになる。

しかし、重五郎が遣米使節随行を命じられたのは安政六年九月であるから、その時、渋柿園は十二歳になっていなければ可笑しい。

この「幕末の江戸芸者」が書かれた大正の初年頃は、年齢表示は数え歳が普通だったから、或いは渋柿園の記憶違いか、どうか。

この記事の内容からすると、幼い渋柿園の心に深い印象を残した此の芸者は、その宴会を取り仕切る裁量を任せられている女性で、それ程の芸者ならば、かなりその名が知られた芸者だったと思われる。

時代的にも、先に挙げた「柳橋の昔」と一致するので、その頃、屈指の芸者といわれた、お栄、おたけ、お金、大幸の中の一人と考えてよさそうである。

引き続いて、渋柿園は次のように書いている。

「此勢力のある芸者の馴染客は主に諸侯の御留守居役、八丁堀の町与力、金座銀座の役人なぞで、御客が芸者の情人(いろ)にならうと云ふのには少くとも二三年の間四季の着物を貢いでやらなければ特別の関係は出来るもので無かった。(中畧)此時代は芸者に権威があってそれが又よく遊客の間に認められて居たものであるが、今では什麼(どう)だかよく私は知らない」

以上、三回に亙って幕末の柳橋芸者の風俗の一端を古い資料から拾ってみた。

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