第135話 『柳橋芸者(ニ)、芸者風俗』

 柳橋芸者の風俗について、「柳橋の昔」には次のようにある。

「頭髪は若きは高髷の島田、年を取たるは潰しの島田なり。何れも白魚を髷に、簪を一本(珊瑚珠の玉に金脚ぐらひは挿たり)前に挿たり。今とは違ひ其頃は頭髪を結ばねば座敷へは出ず料理屋にても呼ばぬ事と成居たり。假令(たとえ)馴染の客にても、今日は頭髪を結ずに居りますが宜しう厶(ござ)いますかと、一応は断りたるものなり、洗ひ髪よし束髪結構、いてふ(銀杏)返し、道磨(だるま)返し、櫛巻、何でも苦しからずと云ふ今日の如き状態にては無りしなり。
 櫛の如きも今の如くきらきらしたのを好まず、是真の下画に弧民の蒔絵、其頃の價にて二十五両位も掛りたるを目立たぬやうに差たり。
 柳橋は裾模様、変り裏を禁じられてありしかば、裏は花色絹に限りたり。或芸者(たしかお栄かと思ふ)正月の春着に裾模様と見せる意匠にて、表は黒縮緬の無地、褄下を折返せば、同じ黒地に玉椿を染出したる着物を着たりしが、穏ならねばとの注意があって三ヶ日だけ着て止めたり。
 此ころ最も意気な形と言へば、藍返し毛万二ッ割の二枚襲に塩瀬の袱紗帯、赤しつた鹿子の長襦袢等なり、塩瀬の袱紗帯は京都まで織に遣りたるものにて、其頃ですら一本五十両位は掛りたり。但し一機(はた)三本にて其以下は注文に応ぜざりしゆゑ、一本の帯に百五十両を投じたる訳なり。
 唐棧の乱竪縞また意気にて有たり。(中畧)
 芸者は素足に限りたり。客の前へ足袋を穿て出るは失礼と心得たるなり。深爪を取て紅を差たるなど奇麗にて有たり。蘭蝶の新内にも「素足も野暮な足袋となり」とあり。
 柳橋にては白襟を禁じられて有ったれば、薄鼠、又は薄藍等さまざまに工夫したり其を吉原あたりにても意気なりとして真似る事とは成たるなり。
 今日の如く乱脈にては非ざりしなり。柳橋は柳橋だけの風紀あっても、若し之を犯す者は、名主より営業止を命ぜられたるなり。さればとて枕席に侍さぬと云ふ訳にても無りしが、先づ客一人、情夫一人と定たり。而して是等の密会所は船宿と極て有たるが、其すら厭ふ客は遠く新宿、向島等まで出掛たり。今の客は只だ肉慾のみを貪り、昔の客は情を弄びたるものなり。(中畧)
 柳橋の橋手前(両国寄の方なり)に桝田屋、新上総屋、万年青屋等十四五軒の船宿、軒の並べたり。船宿とは名ばかり其実今の待合なり。唯今の如く高楼大厦ならず、六畳に四畳、三畳くらゐの二階にて女中二人くらゐを使ひ、万事手軽にて有たり。船は山谷堀まで片程(かたみち)猪牙舟三百文、屋根船六百文、船頭二人の時は此二倍なり。
 柳橋は昼一分、夜一分の玉代にて祝儀は上等の芸者二分、下等一分なり。一ヶ月の収入凡そ四十両位なりしと云ふ。
 深川は一般にいなせなりしが、柳橋は立花町の踊子の余風ありて上品にて有たり」(芸者のエピソードに関する部分は割愛させて貰った)

 以上の文中に、是真の下画に弧民の蒔絵とある、是真とは柴田是真(1807~1891),弧民とは胡民で、中山胡民(1808~1870)のことである。

 柴田是真については説明するまでもないと思うが、中山胡民は原羊遊斎の弟子で号を泉々と云い、精巧緻密な作品で知られている。

 裏は花色絹とある花色とは縹(はなだ)色のことで、藍系の色である。
 毛万は華鬘(けまん)で、花を糸などに通した飾りのこと。

 赤しつた鹿子の長襦袢とある、赤しつた鹿子とは赤疋田鹿の子のことのようである。『女芸者の時代』では、そのまま、赤しったの鹿の子と、しったに傍点を打って引用しているが、しったとは疋田を「ひ」と「し」の区別がつかない江戸弁でいった言葉と思われる。

 この『趣味研究 大江戸』の「柳橋の昔」のすぐ前に、塚原渋柿園が「幕末の江戸芸者」と題して書いている。
 塚原渋柿園(1848~1917)は東京日日新聞の記者で、その後、歴史小説で名を成した明治時代の小説家である。

 塚原渋柿園といっても今は殆ど知る人もいないだろう。『漫談明治初年』(同好史談会編、昭和二年刊)という本に元新聞記者の荻原有仙子が「明治初年の新聞記者」と題して書いている中に塚原渋柿園について次のように出ている。

「『日日』で小説を書いて光ったのは、塚原渋柿園で、あの人は何でも出来る人で、才子で学者だった。お父さんは医者でした。渋柿園のために『日日』の小説はあの人と福地が書いたので他から買はなかった。外の新聞はみんな社外の人から小説を買ったものです。『日日』では私の居る時分には決して買はずに、凡て塚原が書いてゐた。その後に塚原が歿(な)くなって、小説をかかなければならんといふので、桜痴居士(おおちこじ)が書いた」

 とある。文中、福地、桜痴居士とあるのは、いずれも云うまでもなく、福地桜痴のことである。

 さて、塚原渋柿園が書いた「幕末の江戸芸者」に話を戻すが、最初に、「江戸時代の事を調べると種々面白い話がある」とあって、黒船の渡来で幕府が打った姑息な手段がいずれも中途半端に終わっていることに触れた後で、「幕府の武士と一口に呼ばれて居る中にも、細く云ふと役人と番士との区別がある、番士と云ふのは殿中の間を見廻ったり大手や見附の番をしたもので、其中で学問があり気量ある者が撰ばれて役人となって居た。其時代に芸者でも呼ぼうと云ふのは、主として此役人の連中に限られて居たものである」

と書いて、そのエリート役人になった塚原一族の一人、塚原但馬守重五郎の逸話を挙げて、その経歴、人柄などの説明している。

 重五郎について、渋柿園は「私の同家に塚原但馬守重五郎と云ふ中々度胸のある人が居た」といっているだけなので、重五郎が塚原一門の人間であることはわかるが、渋柿園の父の兄弟なのか、母の兄弟姉妹なのか、つまり渋柿園と叔父、甥の関係なのか、或いは従兄弟同士なのか、はっきりはわからない。

 塚原重五郎は日光奉行をしていたことがあったようだ。以下、原文。

「(重五郎が)一度日光の奉行をして居た時例の築波一揆が一千人ばかり日光山に押し懸けて来た、浪人の心中では日光は霊廟のある所だから、日光に立籠ったならば幕府の方で手足が出せまいと考へたらしい。これを知って重五郎は此浪人達に「味方をしませう」と陽(いつわ)って、密かに部下に命じて神橋の大砲を三門据へさせて置いて、それから後で「さあ三人宛御渡しなさい」と云って嚇(おど)した。この権謀は見事に成功して浪人は日光から大平山に去り、それから築波山に立籠った」

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