第134話 『柳橋芸者(一)、柳橋花街』

 戦後、花柳界がもっとも盛んだったのは昭和四十年頃ではなかったろうか。

 確か昭和二十四年、それまで裏口営業だった料理飲食店の営業が再開となり、花柳界も復活。その後、間もなく朝鮮戦争の軍需景気で奇蹟的に戦前のレベルに回復した。以後、池田首相の所得倍増論や神武景気、岩戸景気などといった好況の波に乗って、昭和四十年前後にそのピークを迎えたものと思われる。

 前にも書いたが、その頃、「三コ」という言葉が流行った。「三コ」というのは、コの字の付く三つのこと、小唄、碁、ゴルフで、その三つのことが出来ないと会社の重役にはなれないといわれた。

 その頃は会社の交際費も、今よりはるかに自由に使えた時代で、客の接待は花柳界で芸者を侍らしての宴会、宴酣わになると、今のカラオケさながらに小唄が次々と披露される。

 宴会の度に、いつも馬鹿の一つ覚えのように同じ唄ではみっともないので、師匠について新しい唄を稽古して貰う。重役が小唄の稽古に励むと、部下も右へ倣えで小唄を習う。
 小唄ブームが起こって、雨後の筍の如く、小唄の家元が出来て、一時は百近い流派があったと聞いている。

 好景気に支えられて、東京中のちょっとした花柳界は、年に何回か、都心の劇場を借り切って、その土地の芸者総出演で踊りの会を催すようになった。
 新橋の東をどりは戦前から有名だが、赤坂は、みのり会。柳橋は、みどり会。芳町は、くれない会。下谷は、さくら会。浅草は、浅芽会、などといった。

 そんな好況に陰りが差し始めたのは、昭和四十年のオイル・ショックだったろうか。
 その後の約三十年の間に、東京中に数多くあった花柳界は景気の後退、バブルの崩壊などに依り、殆どは凋落の一途を辿り消えて行った。

 政治家や財界人で賑わっていた新橋、赤坂でさえ、往年の面影は全く無く、況や中小の花柳界に於いておやで、今や花柳の巷の華やいだ噂話は僅かに、神楽坂、浅草、向島にその一端を仄聞するのみとなった。
 新橋、赤坂と共に三大花街といわれ、又、新橋と新柳ニ橋などと稱された柳橋の花柳界も既に数年前に姿を消してしまった。
 
 柳橋は、江戸時代からの伝統ある色街だった。
 柳橋という橋は、神田川が大川(隅田川)に合流する手前の河口に架かっている橋で、橋を挟んで北側の川沿いは台東区で、南側は中央区になっている。

 昔は橋の南北両側に貸席、料亭が建ち並び、それらを総稱して柳橋の花柳界といったのだが、次第に花街の中心は北側、今の台東区の方へ移って行ったようである。
 江戸時代から明治にかけて、書画会やお浚いなどの催しで知られた万八楼もその北側にあった。

 柳橋芸者の起源について、『女芸者の時代』(岸井良衛著)という本では、太田蜀山人の『金曽木』の記事を引用して、薬研掘や橘町の芸者を嚆矢としている。
 柳橋の花街が盛んになったのは、水野越前の天保の改革で、殷賑を極めた深川の色里が取り潰しになったことに因るようで、『女芸者の時代』には、

「天保十三年(1842)三月十八日に深川の岡場所が取払いになるまでの柳橋の芸者の数は僅かに十四、五人にすぎなかったといわれている。
 その前の年の十二年の十月七日には、堺町から出火して、葺屋町など芝居町は全焼して、翌十三年二月三日に、芝居町は浅草へ替地と決まって、それまでは芝居町で繁昌していた芳町がさびれ、次に深川が取払いとなったので、柳橋の色町が俄に繁昌して、安政頃(1854~1859)には芸者の数は大小合わせて百人といわれた。
 その頃、全盛の芸者は、お栄、おたけ、お金、大幸(三遊亭円朝の妻となる)、少し時代が下って、お愛(松平容堂の妾)」

 これについて、成島柳北の『柳橋新誌』初編(安政五年に書かれた)の序文には次のように出ている。漢文なので読み下し文を挙げる。

「古に微にして今に盛なる者も亦有り焉。柳橋是れ也。凡そ物の太だ盛にして頓に衰ふる者、復た興らざること靡し矣。諸を将家に譬ふれば猶を新田氏のごとき歟。乃ち今の柳橋は亦深川の死灰再び燃ゆる者にして、其の盛殆んど其の旧に踵ぐと云ふ。噫今にして、其の盛を記せずんば、乃ち亦五年十年を過ぎ、安んぞ知らん凋零して今日に如かざるを」

 今既に柳橋の花街がその姿を消してしまっていることを思うと、この文章が一そう身に沁みて感じられる。

 前出の『女芸者の時代』からの引用文は、出典を明らかにしていないが、実は関東大震災前の大正二年に出版された、『趣味研究 大江戸』(江戸研究会編纂)という本に載っている榎本破笠という人が書いた「柳橋の昔」の内容をそのまま写しているようだ。

 その「柳橋の昔」の該当する部分は次のようになっている。

「水野越前守の御主意前までは、微々たるものにて、僅かに芸者が十四、五人ありし而巳なりとぞ。十三年の御主意にて深川潰れ、葭町は芝居町の移転と共に寂れたより、柳橋俄に繁昌して、安政頃には大小芸者合せて百人と言ひたり。柳橋は芸者と云ず、都て酌女なり。(尤も普通は芸者と云ひたれど)元来芸者と云ふは櫓下と吉原に限りたるものなり、櫓下とは芝居町なり。故に猿若町の芸者は公然たる芸者なれど、山谷堀の芸者は土地続に有りながら酌女にて有りたり。扨此の芸者と酌女とはそれぞれ区別の控を立られたり。第一、吉原、芝居町の芸者は假令馬爪(ばず)にても笄を差たれど、柳橋を初め葭町、日本橋等の土地にては堅く禁じられたり。故に柳橋の芸者は笄の替りに白魚(しらお)と云ひて、一方の端に耳の附たる笄類似(但し簪よりは短し)の物を鼈甲にて造りて差たるなり。第二、柳橋其他の岡場所にては着物の裾模様、又は替り裏白襟いづれも御法度なり。第三、吉原芝居町にては三味線を長箱(黒塗)の侭箱夫に提させたり。其頃屈指の芸者はお栄、おたけ、お金、大幸(三遊亭円朝の妻)少し下っては居たれど容堂公の妾と成たるお愛等にて有りたり」

 とあって、文語体と口語体の違い、話の順序の違いはあるものの、内容は同じといってもよいようだ。(「柳橋の昔」に出ていて、前の『女芸者の時代』に出ていない事柄も、同書の後の方に出てくる)

 両書に出ている柳橋を代表する芸者は『柳橋新誌』初編に出ている大妓(一本)の中にその名がある。(大幸は阿幸のことか)
 又、柳北は『柳橋新誌』第二編の中で、文久二年(1862)の夏に、友人の柳春三と戯れに柳橋芸者二十四人を花に見立てて花信評を作ったと書いている。

 お栄の名はその中にはないが、お金は梅花、お幸は桜花、お竹は蓮花に比してある。(お愛は明治になってのことか)
 又、「柳橋の昔」の文中に、馬爪とあるのは文字通り馬の爪で、それで鼈甲の模造品を作っていたのである。三味線箱を運ぶ箱夫とは箱屋のことである。

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