第133話 『玉屋山三郎と荻江節(九)、まとめ、拾遺』

 近喜といくの子供達については、まだ不明なことが多い。

 殊に、すみについてはわからないことだらけで、近喜といくの間に子供がいない訳でもないのに、何故すみを養女にしたのか、長女として養女にしたので、その時には子供がいなかったには違いないが、その理由がわからない。「北川町さんの話」にあった、「立派な支度をして原庭とかいう質店に嫁にやった娘だが、その嫁入り先がいけなくなった」という、その娘はその後どうなったのだろう。

 近喜がそのまま放って置いたとは思えない。
 その娘をいくとの間に引きとって養女にしたと考えられないこともない、と前章に書いたが、それは今のところ憶測でしかない。

 又、五代目露友の実の姉、佐橋章が昭和九年に四代目露友の長女である飯島すみから、露章という名を許されたが、それは後継者を約束されたものだった、と仁村美津夫氏の『宗家五世 荻江露友』にあったが、それによると、すみは昭和九年までは少なくとも生きていたことになる。それはまあ、いいとして、昭和九年に露章の名を貰ったというのは疑問である。

 何故なら、いくの没後、荻江節を復活させたのは、ひさ、うめの姉妹で、ひさは自分では家元とは稱さなかったが、邦楽界では家元格の扱いだった。そのひさが他界したのは昭和十一年で、昭和九年にはまだ存命だった。

 ひさの弟子である佐橋章がひさの許可なく勝手に露章を名乗れる筈がない。
 ひさの没後、荻江の家元は笹川臨風博士が預っていたようなので、博士から許されて露章になったとすれば有り得る話だが、そうであるならば、昭和十一年以降の話でないとおかしい。

 しかし、そうなると、すみの出番がない。

 いくが亡くなった後、守竹家を継いだ小よしという女性がすみと同一人という説も確証はなく、もし近喜がいくと一緒になる前にいた娘がすみとすると、蝶よ花よと育てられたお嬢様で、水商売の芸者家の後など継げる訳はない。従って、別人である可能性も高い。 その他の子供達についても、何人いたのか、名前その他、不明の者も多いが、その中で、二女のせいだけははっきりしている。

 この四月に、さよなら公演をして改築のため休座している歌舞伎座の顧問医をされていた赤羽紀武先生は、前章に出ていた赤羽武次郎、せい夫妻のお孫さんで、その先生から赤羽家の戸籍謄本の写しを頂戴したので、せいの周辺のことについてははっきりした。

 せいは、父は飯島喜左衛門、母はいくの二女となっていて、明治九年四月十一日生まれ。
武次郎とせいの婚姻届は明治三十三年五月三十一日に出されているが、その時、同時に明治三十年十二月三十一日生まれの長女、貞の認知届が出されている。

 又、結婚前のせいの住所が、日本橋区元柳町三十二番地で、戸主飯島ハナ姉、となっている。明治三十三年といえば、母のいくもまだ存命で、戸主が飯島いくならわかるが、せいは守竹家にはいないで、ある人の妾になっていたというはな(ハナ)の妾宅に同居していたということか。

 赤羽武次郎、せい夫妻には一男三女があった。
 はなについては、『三絃楽史』に「ある人の二号になっていた」とあるだけで、その他のことは一切わからない。せいに関連して、その妾宅の住所が知れただけである。
 富本豊志太夫の妻になった、いくの娘が誰だったのかも不明。

 大分、話が広がってしまったので、最後に近喜といくについて、書き残したことや新しく発見した資料を挙げてこの稿を締め括りたいと思う。

 いくについて、明治八年刊の『諸芸人名録』の「男芸妓之部」に「柳橋 山彦いく」とあるのは飯島いくのことと思われる。
 いくは荻江、富本もやっていたが、河東もやっていたようだ。『十寸見編年集』に、いくの名はないので、柳橋という土地柄から、山彦栄子の弟子と考えられる。
 栄子は柳橋の船宿、藤岡の娘で、河東節を初め母親の徳から習ったという。

 徳は、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶の妻、山彦文子の弟子だったが、藤岡のお徳といってよく知られた女性だった。
 栄子はその後、母の師である山彦文子につき、文子が安政五年(1858)に亡くなった後は、可慶について修業していたようである。
 可慶の息の山彦秀次郎(後の秀翁)が維新後、河東節に見切りをつけ、渡米して日本を留守にしていた間、河東の頭取世話方として河東節連中をとりまとめていたのは山彦栄子だった。

 いくがその栄子の弟子であるとすると、母親の徳と近喜の四代目荻江露友が昵懇であったことも頷ける。
 明治十一年頃の新聞には、二人が何処其処のお浚い会に顔を見せたなどという記事が載っている。
 その肝心の四代目荻江露友についての情報は殆どないといっていい。特に晩年のことは全くわからない。

 前出の明治八年に出た『諸芸人名録』には荻江節の芸人はいない。荻江姓の芸人はいるが、それは吉原の幇間で、その芸名である。
 近喜が北川町の邸を澁澤倉庫に売ったのは明治九年で、その金で玉屋から荻江の家元の権利を買い、鑑札を貰って、その年に襲名披露を東両国の中村楼で催したものと思われる。
 その時に出来た曲が「四季の栄」といわれている。

 それ以後の四代目露友については、幇間になったとか、いう噂もあるが、確かなことはわからない。
 玉屋山三郎の山田山三郎が荻江家元の権利を近喜に売り渡して以後、吉原の幇間から荻江の姓が消える。(『諸芸人名録』の「男芸妓之部」に出ている荻江姓の芸人とは荻江米治という吉原の幇間である)

 明治九年以後の吉原細見で私が見ることが出来たのは明治十四年、十五年のもので、残念ながら九年から十三年の間のものは目にすることは出来なかった。  勿論、十四、五年の細見には荻江姓の幇間は一人も見当たらない。
 明治になってからの吉原細見で見ることが出来たのは明治三年と五年、その後は十四、五年になってしまう。

 明治三年の吉原には、荻江千代作と千蔵の二人の荻江姓の幇間がいる。
 五年になると、千代作の名が消えて、千蔵と露八の二人になる。荻江露八は「松廼家露八」の章で詳しく書いたように彰義隊生き残りの土肥庄次郎という元武士だったが、維新後に太鼓持ちに転身した有名な幇間である。

 その荻江露八も松廼家露八と改名している。松廼家は最初、松の家という姓で、松の家を名乗る幇間が出てくるのは明治になってからで、慶応元年の吉原細見には一人も見当たらない。

 もっとも、私は慶応ニ、三年の細見を見ていないので、その間に現われた可能性がないとはいえない。
 明治三年の細見には五名を教える。五年の細見にも五名の松の家姓の幇間がいる。
 明治八年刊の『諸芸人名録』の「松廼家節之部」というところに、頭取世話方として、松廼家静樹、唄方に八名、三味線方に六名の松廼家某の名が出ている。

 松廼家静樹だけ離れて出ているのは家元的人物と考えてよさそうだ。
 松廼家静樹という名を見た時、私は玉屋の花柳園山三郎の本名、山田清樹を連想した。

 まず考えたのは、荻江の家元の権利を手離すことにした後、その代わりとなるようなものとして松廼家節なるものを作ったのではないか。つまり、松廼家静樹とは山田山三郎ではないか、ということだった。住所は新吉原衣紋坂となっている。山田山三郎は玉屋癈業後、湯島に転居しているが、明治八年頃には、もしかして又、古巣の吉原に戻ったのではないか、と思って調べたが、わからなかった。

 松廼家静樹は山田山三郎ではないかもしれないが、名前からして荻江と関係が深い者には違いない。荻江露八が松廼家露八となったことからも、そんな気がしてならない。

 最後に、東京都公文書館にあった、飯島喜左衛門関係の二枚の文書を挙げて置く。
 二枚とも金に関するもので、いずれも罫紙に筆で書かれているが、近喜事、四代目荻江露友の動向を知り得る資料ではない。

 以下、読み下し文をそのまま挙げるが、その内容については未調査である。
(一)大蔵省の罫紙に書かれている。日付の壬申とは明治五年である。

「其府下別紙名前之者拾九人調達金證書写取調之儀ニ付尋問之筋有之候条明後廿九日第八字当省江罷出負債掛訟所江可申立旨可被相達候此段申達候也  壬申七月廿七日       大蔵省
東京府         」
(このあと、別紙三枚に十九名の住所と名前が書いてあり、飯島喜左衛門は二枚目の初め、十一番目に次のようにある)

「第六大区小壱ノ区深川福住町
飯島喜左衛門」

(二)東京府庁回議用と印刷された罫紙が使われている。日付はないが、明治十一年の書類の中に綴じられてあった。

「    下達案
第一大区十三小区
米沢町二丁目三番地
平民
飯島喜左衛門

旧郡山藩ニ係ル米代滞金公債下処分之儀該藩旧官吏ヨリ郷官庁ヘ再願之趣堺県ヨリ照会ニ付事実大蔵省ヘ及奥状候処明治六年三月第八十二号公布中第十項之旨趣も有之債主所持之書付は買上米之請取手形ニシテ金穀調達之證文ニ無之今更何様ノ事実申出候共一般之法則ニ悖リ採用難相成旨ニ致意相成候条此段為心得相達候事
年月日     」
(江戸時代、飯島家は可成りの金を郡山藩の柳沢家に貸していたようだ。この明示十一年の近喜の住所は深川から移ってきた柳橋の家の住所になっている)

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