第132話 『玉屋山三郎と荻江節(八)、近喜の子達』

 近喜といくの間には、『荻江節考』では、「実子はなかったようである」と書いてある。
 更に、「喜左衛門ではなく、いくには少なくとも三人の養女があった」として、その三人は守竹家の芸妓か、といっている。
 その筆頭が小よしで、いくが明治三十六年七月二十五日、五十九歳(数え歳)で亡くなった後、守竹家を継いだ女性で、中川愛氷の『河東と荻江』(筆者未見)に、

「いくの娘によしという者があり、さる鉄道家の妾となり、気位殊の外高く、芸事などはお話にならず、家元の印を握放しにて、家に伝わる荻江の秘書はいずれの手にか売飛ばして知らぬ顔」

 とあるそうで、『荻江節考』では、これが小よしと同一人か、といっている。

 又、この外、養女にせいとはなの姉妹があり、姉のせいは神田松下町の医学士、赤羽武次郎に嫁し、妹のはなはある人の二号になっていた、とある。

 中川愛氷の『三絃楽史』には、

「神田松下町の赤羽武次郎という医学士があって、この赤羽氏も(中川愛氷主催の)調声会に或人から紹介されて荻江の唄を唄った。素人にしては旨すぎると思ったが、それもその筈、荻江の唄に惚れ込んで妻にしたのが、いくの娘のせいであった。
 せいの妹のはなというのが、当時或人の二号になっていたが、せいもはなも荻江には興味を持っていず、赤羽氏も家元になって、どうこうしようという気持もなかった」(以上、要約)

 同書には、近喜といくの子については、このせい、はなの姉妹のことしか書いていないが、もう一人、名前もわからないが、いくには娘がいた可能性がある。

 それは、やはり同書の「富本の四十年」というところに、

「高橋桜洲なる人物が、戸倉某を四代目(富本)豊前太夫の落胤に仕立てて豊志太夫と名乗らせて井生村楼で名披露目をしたが、柳橋の守竹家のいくが富本にも肩を入れ、抱えの芸妓にも習わせた所から、戸倉も出入りしている内に、いくの娘を妻にするようになった」

 とあるからで、この娘が前出の三人でないとすると、もう一人、娘がいたことになる。

 前章で挙げた『宗家五世 荻江露友』という本には、町田佳声氏の「荻江節の起りとその芸を伝えた人々」に続いて、「宗家五世 荻江露友」と題した五世荻江露友師の伝記が載っている。著者は仁村美津夫氏である。
 その中に、次のようにある。

「昭和九年、四世荻江露友(近喜)の娘である飯島すみから正式に(五世荻江露友の実姉である佐橋章が)露章の名をもらうことになった。これは荻江の後継者をやくそくされたものであり、荻江では露友の露は門下にもほとんど使わせなかったのに、特に露を冠した露章の名が許されたわけである。
 この飯島すみも四世荻江露友こと、飯島喜左衛門の養女だった。すみの生まれは加藤家で、その家はやはり維新前には名門だったが、世の中が変って没落した。
 ”今紀文”とまで言われた深川木場の大金持ち飯島喜左衛の娘として、大きな財産を蕩尽し、四十九歳で亡くなった義父とともに数奇な運命を辿った女性だった」

 この飯島すみに関して、竹内道敬氏が著者の仁村美津夫氏に問い合わせたところ、すみは小よしの本名であるとの返答があった、と『荻江節考』に出ている。

 いくの没年について『荻江節考』には、明治三十七年とあるが、因速寺の過去帳では三十六年となっている。三十七年だと、いくの行年は六十歳になってしまう。或いは数え歳と満年令を混同していたのかもしれない。
 近喜の菩提寺である因速寺の過去帳では、近喜の家の墓の所有者の欄に飯島すみの名があるので、すみが長女であることは確かなようだが、小よしと同一人ということには多少疑問が残る。

 というのは、仁村氏の記述には間違いや曖昧な点が多く、そのまま受け入れ難いからで、例えば、近喜のことを深川木場の大金持ちと書いているが、近喜の屋敷は木場ではなく、近江屋河岸といわれた北川町にあった。又、近喜がいくと一緒になる前にいたという娘だが、「北川町さんの話」に、原庭とかいう質屋に嫁いだとあるのは、その質屋の屋号や姓が原庭ではなく、当時、現墨田区東駒形三、四丁目辺りを原庭といったので、場所である可能性もある。その娘の嫁ぎ先の質屋も維新で没落したとあるが、近喜はその娘を放って置いて何も手を差し伸べなかったのだろうか。

 考え過ぎかもしれないが、彼女が飯島すみで、いくとの間に養女に迎えたとも考えられないだろうか。
 一応、疑問を呈して置く。

 柳原緑風氏(荻江梅師の子)の『荻江節の歴史』には、

「唯近喜の長女四代露友の姉に当るとせ女は露光と云って矢張り荻江に堪能であったが、その娘えいが深川高橋の旧家三河屋質店事加藤家へ嫁し、えいの長女るいが祖母露光に就いて荻江を習得してゐたが之も先年病死しました。荻江の古写本はこの加藤家にだ大分残されてゐたが之も震災で焼失してしまひました」

 とある。仁村氏の「宗家五世 荻江露友」の中に、近喜の養女だった飯島すみの生まれは加藤家で、その加藤家は維新前は名門だったが、世の中が変って没落したとある。

 前に、近喜の姪(姉とせの長女)のえいが旧家三河屋質店の加藤家に嫁いだとあって、ここにも加藤家が出てくるのは偶然の一致なのだろうか。

 又、近喜の前妻との間に出来た娘が原庭という質店に嫁いだと「北川町さんの話」にあったが、えいが嫁いだ先も三河屋という質店であり、偶然といえばいえないこともないが、同じようなことが重なると、いささか気になる。

 中川氏は又、近喜の姪、つまり妹の露の娘の鶴子が、母の妹のかめの三味線で金屋丹前と深川八景を唄ったのを聴いている。

 こうしてみると、近喜といくの子供達は荻江節のあまり興味を持たなかったが、近喜の姉妹は皆、荻江節をやっていて、しかも、かなりの腕前だったようだ。
 ということは、誰だかわからないが、維新以前に荻江の師匠が近喜の屋敷に出稽古に来ていたに違いない。

 近喜の家族とは直接関係ないので引用しなかったが、「北川町さんの話」に、

「円朝(名人円朝)は、年中出はいりしておりました。又是真(柴田是真)なども出はいりしておりました」

 と出ている。
 円朝は近喜一家や荻江節のことを取りあげて、「牡丹燈籠」、「月謡荻江一節」(つきにうたうおぎえのひとふし)、「名人くらべ」などの作品を創っている。

 それについての詳細は、『せんすのある話』「荻江節」第十三~十五章を見て頂きたい。

 円朝の代表作ともいうべき「牡丹燈籠」は近喜の弟の弁次郎がモデルで、露という娘の名は近喜の妹の名で、作中露は飯島平左衛門の娘となっている。

 又、かめという末の妹の名は同じく『江戸は過ぎる』の「牡丹燈籠のお露さん」に出ている,近江屋河岸の堀割りに住みついている縁起のよい蓑がめから名付けられたに違いないだろう。

コメントを残す