第131話 『玉屋山三郎と荻江節(七)、近喜の家族』

 四代目荻江露友になった近江屋喜左衛門、俗稱近喜こと、飯島喜左衛門の家族については、中川愛氷氏の書かれたものに拠っているのが殆どであるが、それを整理した家族表が『荻江節考』(竹内道敬著)に出ている。
 その表によると、近喜にはとせという姉がいた。

「とせは荻江露光という名を持っていた。とせの娘にえいというものがあり、深川高橋の質屋三河屋に嫁いだ。その長女にるいがあり、祖母のとせから荻江を習っていたが、大正の末に亡くなった」(以上、要約)

 これは中川愛氷氏の『河東と荻江』にそう載っているとあるが、私は同書は未見であるので、そのまま孫引きさせて頂いた。

 又、近喜には、露とかめという二人の妹があった。
 露の娘に鶴子があり、母の妹、つまり叔母のかめの三味線で、金谷丹前と深川八景を唄ったのを中川氏は聴いている。(以上、『三絃楽史』)
 近喜の兄弟姉妹関係は、姉一人、妹二人だけで、兄弟は前掲の家族表には載っていない。

 同表には又、近喜の子供として、次男の弁次郎というものがいて、円朝の『牡丹燈籠』のモデルになったと『小唄よもやま話』(英十三著)からの引用があって、次男があったからには長男がいたに違いないと、長男の下に?印が打ってある。

 近喜の妻のいくについて、『荻江節考』の「四代目の没後」に、

「四代目露友こと飯島喜左衛門が死んでから、荻江はどうなっただろうか。
 妻のいくはそのとき四十歳になっていた。彼女は正妻ではなかったともいわれるが、それはともかく、荻江を知っており、荻江いくという名取であったらしい。夫の没後、政吉という名で柳橋に芸者として出たとあり、のち、守竹家という芸妓置家を営んだという。四十歳になって芸者に出たというのは、喜左衛門と一緒になる前も、芸者であり、正妻ではなかったことを裏付けているようである」

「喜左衛門といくの間には、実子はなかったようである」

「しかし、喜左衛門にではなく、いくには少なくとも三人の養女があったことがわかっている。この三人は、喜左衛門の没後、守竹家の養女(つまり芸妓?)であったようだ」

 とある。
 ここに書かれていることはかなりの部分で違っているが、それは追い追い後述ではっきりすると思う。

 拙著『江戸吹き寄せ』の「四代目荻江露友家の家譜」にも書いたが、次男の弁次郎というのは飯島家の次男であって、飯島家の長男は近喜自身なのである。
 つまり、近喜には弁次郎という弟がいたわけである。
 いくの経歴については前章でも述べた通りだが、近喜との接点がいつだったのかは不詳。

 しかし、以下引用する『江戸は過ぎる』(河野桐谷編)の「北川町さんの話」に、娘がいたとあるから、いくと一緒になる前に正妻がいたのは確かで、彼女と離縁の後、いくと正式に結婚して、少なくとも三人の実子が出来たことはわかっている。

 その裏付けになった記録が『江戸は過ぎる』に載っている、前出の「北川町さんの話」(西村勝三郎氏未亡人の談)と「牡丹燈籠のお露さん」(都築幸哉氏談)の二話で、それに加えて、近喜の菩提寺、江東区東砂の因速寺から頂戴した近喜に関する資料から、全貌とまではいかないが、或る程度推定出来ることもあるので、以下関係箇所を引用する。

「露友さん(近喜)は、弟さんと、お嬢さんとがありましたが、露友さんのお母さんやお父さんは、その頃いたかどうだか子供心で憶えていません」

「お嬢さんは原庭とかいう質店に嫁ぎましたが着物等もずいぶんたくさん持って行き、立派な婚礼をしたけれど、直にそこもいけなくなったのでした。旦那(露友)の次は、弁次郎さんという人で、この人は馬鹿に色男で、浮世絵の美男みたような人でした。(中畧 )養子に行って、円朝の牡丹燈籠の話の種になったというのは、その後のことでしょう」(以上、「北川町さんの話」)

 因みに、話し手の西村勝三郎氏未亡人の甥のお母さんが、近喜の家の女中頭をしていたという。
 以下は、「牡丹燈籠のお露さん」から、

「私も父から聞いたことですから、よくは知りませんが、飯島はよほど大きかったものらしいのです。玄米問屋で、大名から玄米をとって金に換えたのです。先祖が近江から出たので、近江屋といった。そして、代々当主は喜左衛門といったので、それで、俗に近喜近喜といったのでしょう。北川町一町内が住居で、堀割の中にみの亀がいるので、画家がよくスケッチに出かけました。その亀は大分大きかったそうです。古く年経たので、亀の甲羅には藻が三尺ぐらい生えていたそうです。時折天気の良い日など、その亀が浮いているので、それが家の栄えるしるしであるとかいって、たいそう珍重しましたそうです」
「今日のおひさという荻江節のお婆さんは、おいくの弟子です。おひさがおいくの所に稽古に来てるのを私は子供心に覚えています。私の親父も少しは荻江節をやりましたが、今のおひさのやる荻江は大分ちがっているようです。荻江節も今日では、殆ど絶え絶えでしょう。円遊という落語家の妻君が、荻江節が上手でした。深川八幡の門前に、宮川とかいう鰻屋がありますが、あれが、おひささんのお弟子です。いっぺん「屋島」かなんかを伺ったことがありました」

 荻江ひさの話は、近喜の家族とは関係ないが、引用したのは、ひさの芸歴については不明な点が多く、ひさが荻江節を習ったのはいくではなく、富本わかという富本節の女芸人だったともいわれているし、また、ひさは守竹家抱えの芸者だったという説もあるようだ。

 町田佳声氏は、昭和三十一年に五代目荻江露友を襲名した前田青邨夫人のことを書いた『宗家五世 荻江露友』(昭和四十三年刊)の中の「荻江節の起りとその芸を伝えた人々」で、

「このようにして四代露友が復興した荻江節もまさに絶えようとしたのを、幸いにもその一門から柳原ひさ、梅の姉妹が現われて、明治から昭和へと荻江節をつなぐ橋(ブリッジ)の役目をしたのであるが、これはブリッジであっても尊とい存在であった。またこの柳原ひさ、同梅両女の履歴については梅の子である柳原緑風氏も身内のことで書き憎くかったのか、あまり詳しい記録を残してくれなかったのは残念であるが、幸い芸能方面のことだけは解っている。それは四代露友の地を弾いていた人に富本豊久と呼ぶ人がいた。(中畧)しかるにこの豊久は非常に芸の優れた人であったということで、この豊久の娘にわかというのがあり母に似た芸達者でこのわかにひさ梅両女は荻江を習ったという」

 とあるので、都築氏の話を引用させて貰ったわけだが、或いはひさ梅両女は富本わかから荻江節を習ったのかもしれないが、ひさがいくの所に行っていたのも確かなようだ。

 次回は、近喜といくの子供達について書く予定である。

 なお、前出の「牡丹燈籠のお露さん」の中に、「(近喜の)先祖が近江から出たので、近江屋といった」とあるのは誤りで、因速寺の資料によると、初代近喜は信州穂高宿の生まれで十二歳の時に江戸へ出て来て、三十四歳の宝暦六年の江戸大火の折、米と材木を商って五千両儲けたとある。

 十二歳で江戸に出て来た初代近喜はいずれ何処かに奉公したに違いなく、長年つとめあげて暖簾分けをして貰った、その奉公先が近江屋であったのだろう。  従って、三十四歳の時には既に独立していたことになる。

 因速寺の資料については、拙著『江戸吹き寄せ』の「四代目荻江露友家の家譜」を参照されたい。

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