第130話 『玉屋山三郎と荻江節(六)、東和といく(上)』

 前回、十寸見東和の会のプログラムに年表示がなかったが、他の同類の文書が明治四年に集中して残っていることから、同じく明治四年だろうと書いた。

 念の為、コピーにとり洩らした東和の願い書に年月日が書いてあるかもしれないと思って、都の公文書館に確かめに行ってきた。
 東和の願い書の外に、荻江千蔵の場合と同様、市井掛の伺い書も残っていた。

 それによると、明治四未年三月五日(願い書)、明治辛未三月五日(伺い書)と夫々なっていて、やはり明治四年に間違いなかった。
 このことから、山彦秀次郎が東和の順講に出演していない理由も判明した。

 秀次郎の父の十寸見可慶は、『十寸見編年集』によれば、明治四年三月二十一日に亡くなっており、奇しくも東和の順講の当日である。
 順講開催の願い書の日付は三月五日となっているが、恐らく可慶はそれ以前から重い病床にあって、息子の秀次郎は看病で順講どころではなかったと容易に想像がつく。

 さて東和だが、十寸見東和というと、山彦秀次郎門下の味沢貞次郎氏と思ってしまう。 味沢氏は鰻の大和田の主人で、築地成勝寺の元祖河東の墓、向島長命寺の河東歴代の墓が区画整理など寺の事情で癈棄されかけたのを、自分の菩提寺の羽田海岸寺に引きとった、河東節にとっては大恩人ともいうべき人である。(それらの墓は今も海岸寺にある)

 しかし、この明治四年の十寸見東和は味沢氏の一代前の東和で蔵前近くの浅草新片町在住の小野半次郎という者であることが願い書の記述からわかった。
 東和の順講に関する書類は、荻江千蔵の場合と同様、伺い書、願い書、口上書とあり、更に荻江千蔵関係の書類にはない当日のプログラムも残っているのだが、書式は殆ど一緒なので、必要な所だけ挙げることにする。

 まず願い書、

    乍恐以書付奉願上候
 一浅草新片町三番借地河東節三味線指
  南芸名十寸見東和事小野半次郎
  奉申上候来ル廿一日弟子共順講浚相催度
  奉存候処私宅至而手狭ニ而差支候間
  同所下平右衛門町廿三番借地瀬下八郎兵衛
  宅借請弟子共相集リ同日朝四ツ時より
  夕七時限り相仕舞候儀ニ御座候尤口上書
  八拾枚限り門弟の者而己エ相配り其他エ一切
  相配り不申候間(以下畧)

 万八が瀬下八郎兵衛宅となっていて、姓を瀬下といったようだ。

 時間は十時始めの夕方四時終了。口上書は八拾枚で、弟子而己(のみ)に配り、その外には配りませんというのだが、プロを見ると他の流派も大勢出ているので、これでいいのかと思ってしまう。

 しかし、市井掛の伺い書には、大参事、権大参事の宛名の下に承認の印が押してあるので、十寸見東和の順講は間違いなく催されたと思われる。  また、この小野半次郎の東和だが、以前松廼家露八について書いた章(「松廼家露八(三)」)の中で、仮名垣魯文が当時まだ土肥庄次郎といった武士で彰義隊の一員だった露八をからかって激怒させたエピソードを挙げて置いた。

 怒った露八が、魯文を叩き切ってやるといって捜していると聞いて家に帰ることも出来ず、上野池の端の麦斗ろという料理屋で、魯文が講釈師の桃川燕林や幇間の桜川正孝などの知り合いの連中(その中に東和もいた)と呑んでいるところに突然、何処でどう嗅ぎつけたのか、白刃を抜いた露八が入ってきたので一同は大パニックになり、魯文は転けつ転びつ真ッ青になって逃げ出し、燕林は腰を抜かして立てず、東和は二階から辷り落ちて気絶してしまったという、その東和が小野半次郎ということがわかった。(この話の詳細については「松廼家露八(三)」を参照)

 この東和は、『十寸見編年集』によると、可慶の弟子で初め半爾といったと出ている。 順講の主催者である東和が出演していないというのも妙な話だが、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶の病状、死と関係があるのかもしれないが、これらの文書からはわからない。

 順講が河東節の順講か、各流持ち回りの順講なのかもはっきりしない。
 願い書は口上書を添えて提出し、それに対して市井掛が伺い書を出しているようだが、この河東節の順講開催の願い書はちょっと吟味しただけでも可成りいい加減なものである。

 例えば、口上書を弟子共のみに八拾枚配りますと願い書に書いているが、他流の師匠達が東和の弟子である筈がない。
 そんな願い書でも許可が下りたのは、実体が音曲の浚い会と知れているからか、又市井掛が荻江千蔵の名弘会の時と同様、「本日質素ニ相催候は勿論夜ニ入不申退席候様相達シ可申ト存候」と伺い書に書いているように、夜の集会は規制されていたのかもしれない。

 さて、次にいくだが、いくは柳橋花街から政吉という名で出ていた。

 余談になるが、今は水商売の女性の名をすべて源氏名といっている。これは昔、遊女の名を源氏物語から取ってつけたことに依るが、芸者などの何太郎、何助、何吉といった男名前を三田村鳶魚は権兵衛名といっている。

 成嶋柳北の『柳橋新誌』の初編は安政六年(1859)に成ったが、その中の芸妓名を列挙した小妓(半玉)のところに政吉の名が出ている。
 弘化二年(1845)生まれのいくは安政六年には十五歳(数え歳)になっている。『柳橋新誌』の第二編は明治四年(1871)に出た。

 同書に次のようにある。
 漢文なので、読み下し文を挙げると、

「(前畧)壬戌の夏、余柳春三と戯れに柳橋二十四番花信評を作る。阿金梅花に比し、阿幸桜花に比す、(中畧)梅吉は藤花、政吉は燕子花(かきつばた)、千吉は芍薬、(中畧)亦各衆芳に比す。而して当今存する者は唯阿幸、菊寿、政吉(今阿郁と稱す)阿蓮四人耳。)(以下畧)」

 柳春三とは柳北の友人、柳河春三のことで、『名人忌辰録』によると、

「柳川(河)春三 春蔭 尾張の人古き英学者にして一度開成所の頭取となる明治三年二月廿日没す歳三十七」

 とある。

 柳北は春三と二人で、二十四人の柳橋の芸者を花になぞらえた漢詩を作った。壬戌とあるから文久二年(1862)のことである。
 いくは十八歳になっているが、この時まだ半玉だったのか、或いは既に一本になっていたのかはわからない。

 しかし、明治四年、いく二十七歳の時には妓を罷めて郁(いく)となっている。
 政吉からいくになった時期も文久二年から明治四年の間で、それに近喜が関係していたのか、どうかも不明だが、その明治四年に、いくが既に諸流の一流の師匠達に伍して、荻江で活躍していたことが、十寸見東和の順講のプログラムで判明した。

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