第129話 『玉屋山三郎と荻江節(五)、順講の番組』

 芝浦の東京都公文書館に山田山三郎の調査に行った時に、荻江千蔵の名弘会開催の願い書を見つけたのだが、音曲、舞踊などに関する同様の文書も何通かあったので、その中のいくつかをコピーして来た。
 十寸見東和主催の順講の番組と口上書もその一部である。
 順講開催の願い書もあったのだが、コピーにとり洩らしてしまった。

 順講というのは、毎月の月浚いなどを場所を替えて持ち回りで行うことで、この十寸見東和の順講が河東節の順講なのか、或いは番組を見ると、義太夫、一中、富本、荻江なども出ているので、それら各流派の持ち回りなのか、これだけの書類からは何とも分からない。

 とにかく、その文書の内容は次の通りである。

口演
来ル三月廿一日柳橋萬八楼ニおいて順講
相催候間御賑々敷御来駕被成下候様偏ニ
奉希上候以上
会主
十寸見東和

 この三月廿一日というのが、明治何年の三月廿一日なのか、年表示がないので分からないが、他の同様の書類が明治四年なので、やはり同じく明治四年としてよさそうだ。
 次に、その番組を挙げる。

番組
                     十寸見東洲  山彦栄子
松 竹 梅                 十寸見東川  山彦小初
                     十寸見東鴈  山彦康子

おしゅん                 青桜      玉迺舎
伝兵衛 花川戸身替の段           宝雪      徳次
                     宝珠翁

源平妹脊の鶏合              都一中    都一静
                     都以中    都一不二
                     都一米

                     宇治紫文    宇治倭文
邯 鄲                  宇治紫交    宇治桂子
カケ合                  松 斎     山彦山子
                     十寸見東佐   山彦可運子

梅雨
金屋丹前                 あ や     いく
きみ

妹脊山吉野川               花澤三糸算
カケ合                   花澤扇左衛門

神楽獅子                  十寸見東佐   山彦桃子
下の巻                  十寸見東洲  山彦桂子
                     十寸見東洲   山彦良子
                     十寸見巴重

以上  会主  十寸見東和

この番組には七番の演奏曲目が出ているが、曲名と出演者名からすると、次のようになる。

(1)松竹梅(河東節)、(2)花川戸身替の段(富本節)、(3)源平妹脊の鶏合(一中節、都派)、(4)邯鄲(河東節と一中節宇治派とのカケ合)、(5)金屋丹前(荻江、この頃はまだ長唄の荻江であって荻江節とはいわない)、(6)妹脊山吉野川(義太夫節)、(7)神楽獅子、下の巻(河東節)。出演者の上段は浄瑠璃・唄、下段は三味線。

 出演者について、河東節連中を一番後回しにして、わかっていることを付け加えると、

 (2)の富本のトメを語っている宝珠翁とは、安政三年(1856)に富本豊前太夫を退き、豊珠翁と稱し、明治九年に七十二歳で亡くなった三代目富本豊前太夫と思われる。豊という字が宝となっているが、誤字なのか、或いはそう名乗ったこともあったのか、誤字とすると、二枚目の宝雪も豊雪なのかもしれない。三味線の玉迺舎はわからないが、徳次は富本の三味線弾き、六代目名見崎徳治だろう。六代目の名見崎徳治は天保四年(1833)生まれで、明治十年に死んだ。行年四十五歳。

 (3)の都一中は、明治十年三十八歳で亡くなった八代目の都一中で、三味線の都一静(いちしず)はお船倉の師匠といわれた都一清のことである。都一静(いっせい)というと、宇治倭文となった名人おしずが都派にあった時の名になってしまう。都派では、一静という名取りは「いちしず」と稱したという。

 (4)の邯鄲は、宇治派の一中節と河東節の掛け合いで、宇治紫文は初代紫文斎と名人おしづとの実子の二代目紫文斎である。二代目は多病のため明治八年に隠居して閑斎翁と稱したが、明治十二年五十九歳で没した。

 脇の紫交は後に紫鳳から三代目紫文斎を継いだ江左太夫の紫交かもしれない。三代目紫文斎は明治三十六年没。行年七十歳。
 三味線の宇治倭文は二代目で、名人おしづの筆頭弟子のやすである。

 初代は慶応三年(1867)七十四歳で亡くなったが、連れ合いである初代紫文斎が安政五年に死んで間もなく剃髪して清寿尼となり、倭文の名をやすに譲ったといわれている。
 二代目倭文は盲目だったが、浄瑠璃、三味線共に秀れていたという。

 (5)の金屋丹前は荻江で、三味線にいくの名があるが、いく以外の出演者についてはわからない。
この番組は、いくがこの時期既に荻江をやっていた証據ともいうべき貴重な文書だが、いくについては次回、今迄分かっていることをまとめるつもりでいるので、今はこれまでに止めて置く。

 (6)は義太夫で、花澤三糸算の算の字が番組に書かれた筆字では弄とも読めるが、明治の東京で義太夫三味線の頭取をつとめ、明治十四年に隠退した三代目花澤伊左衛門の別名、花澤三糸算と思われる。

 花澤三糸算について『浄瑠璃大系図』に、

「(花澤姓の元祖、初代花澤伊左衛門の)の門弟にて(中畧)、天保元年(1830)寅の春より一座にて尾州名古屋へ行夫より直に東京え赴きて彼地にて改名を致し花澤伊左衛門と師匠名跡相続致すなり元祖より三代目也彼地住居と相成三糸算と改め又伊左衛門にて出勤致明治十五年頃引込終らるる事実(以下畧)」

 三代目花澤伊左衛門の三糸算は浄瑠璃、三味線共に巧者で、弟子も多く、東京に花澤の義太夫を広めたのは彼の功績といわれている。
 もう一人の出演者、花澤扇左衛門については不詳。

 (7)は河東節。河東節の出演者については、『十寸見偏年集』を見れば可成りのことが分かるが、後の明治、大正の家元、山彦秀翁の山彦秀次郎の名が番組にないことと、会主である十寸見東和の名が出演者の中に載っていないことが気になる。

 山彦秀翁は、最後の江戸太夫といわれた十寸見可慶(死後、九代目河東を諡されている)の子だったが、明治の初めに河東節に見切りをつけて渡米し、数年後に帰国して河東の家元となったことは分かっている。しかし、秀翁がいつ渡米して、いつ帰国したかは不明。米国ではあまりよいことがなかったのか、秀翁自身そのことには触れたがらなかったという。

 明治七年の『根元・諸芸東京自慢』という刷物に山彦秀次郎の名があるが、翌明治八年の『諸芸人名録』の河東節のところにはないので、渡米の時期はその頃と思われ、明治十七年四月末からの 東京新富座の助六の絵番付に山彦秀二(次)郎と出ていることから、その頃には帰国していたようだ。
 秀次郎の留守中、山彦栄子が河東節連中をとりまとめていたようで、『諸芸人名録』の頭取世話人名の河東節のところに山彦栄子の名が挙がっている。
 栄子は柳橋の藤岡という船宿の娘で、初め河東節を母親の徳から習ったという。

 徳は四代目荻江露友の近喜と昵懇で、お浚い会などによく一緒に出かけたようで、明治十一年頃の新聞に、荻江の家元と藤岡のお徳が一緒にどこそこの会に顔を出したという記事が出ているのをいくつか見たことがある。
 秀次郎が帰国してその門弟達が真澄会という後援会を作ったのに対して、栄子の一派を藤岡派というようになった。
 会主の十寸見東和と荻江いくについては、次回に―――

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