第128話 『玉屋山三郎と荻江節(四)、荻江千蔵』

 慶応四年(1868)は、一月に鳥羽伏見の戦争、五月に彰義隊の上野の戦いの後、九月に明治と改元になった。

 翌明治二年五月に函館五稜郭の幕府軍が降伏して、明治政府と旧幕軍との戦いは終わったが、それで世の中が安定した訳ではなかった。

 同年九月に大村益次郎が暗殺、翌明治三年には、旧幕の不満分子を集めて不穏な動きを企てたとして雲井竜雄が捕えられ、十二月に小塚原で処刑されるなど、明治の初年には世情不安がまだ、暗い翳を落していたようである。

 明治政府も特に人が集まる集会には神経を尖らせて規制したようで、邦楽のお浚い会のようなものでも許可がないと開催出来なかった。

 都の公文書館には、そうしたお浚い会の開催願いが何通か残っているが、その後治安が回復し、世情が安定するのに伴って規制も緩められたらしく、残っている願い書は、明治四年頃に集中しているようである。

 河野千蔵事、荻江千蔵の願い書もそうした一通で、文面は次のようになっている。

乍恐以書付奉願上候
一 新吉原揚屋町拾七番借地男芸者
河野千蔵事荻江千蔵奉申上候私儀
同所江戸壱丁目廿三番地主町人山田山三郎事
荻江清條門人ニテ先達テ中荻江ト申
芸名貰請是迄当所男芸者稼
罷在候処未右名弘会不仕候二付此度
同門弟中エ口上書八拾五枚ヲ限相配
来四月廿一日宅手狭ニ付浅艸下平右門町
廿三番借地料理渡世萬屋八郎兵衛方
借請名弘会相催申度奉存候尤も
是迄名弘会不仕全かねての義ニテ無縁ノ
者エ相配リ候義ニハ決テ無之候間何卒格別之以
御慈悲此段御聞済被成下置候様偏
奉願上候以上
新吉原揚屋町
拾七番借地
男芸者
訴人 河野千蔵 印
明治四未年三月廿三日 町月懸
藤田為作
東京府
御役所様

 この書類から、山田山三郎の玉屋山三郎が荻江清條と稱して、荻江の名取り名を出すなど、家元的な立場にあったことがわかる。

 清條の清は花柳園山三郎が山田清樹といった、その清を取ったのだろう。

 荻江千蔵は男芸者だったというので細見を見ると、荻江千蔵の名は安政の終わり頃から、その名が出てくるが、その頃の荻江千蔵は先代の荻江千蔵と思われる。

 しかし、以後慶応頃まで、ずっと吉原細見にその名が載っていて、明治三年の細見にも荻江千蔵の名がある。

 先の願い書中に、「先達テ(先だって)」とあったが、その言葉が、五年も六年も前のことを指しているとは思えない。

 せいぜい、明治三年の細見に出ている荻江千蔵が、河野千蔵ではないだろうか。

 又、願い書に千蔵と連名の藤田為作の肩書の町月懸だが、他の同様の願い書の連名の肩書に町月掛とあるので、同じものと思われる。

 この荻江千蔵の願い書に関係する書類として、他に二通、市井掛の伺い書と、河野千蔵が配布した口上書が残っている。

 市井掛の伺い書は次の通り、

為伝置候

大参事
権大参事        市井掛

新吉原揚屋町拾七番借地荻江千蔵
音曲浚願之義御聞届可相成哉尤本日
質素二相催候ハ勿論夜二入不申退席
候様相達可申ト存候此段相伺申候

辛未三月廿三日

 明治初めの警察制度については殆ど知らないが、明治政府は東京の治安に関しては幕府の江戸町奉行所の組織をそのまま利用したといわれているので、市井掛というのは旧町奉行所の定廻り同心に当たる役目の者か。

 大参事の下に北嶋の印、権大参事の下には平岡の印、又、市井掛の下に五つ程の印が押してある。

 辛未とは、いうまでもなく、明治四年のことである。

 次に、荻江千蔵が配布した口上書を挙げる。

口演
益御機嫌克被遊御座恐悦
至極奉存候さて私儀先年師匠より
芸名貰請候二付此度右名弘
浚相催度候処私宅手狭二候間
両国柳橋万屋八郎兵衛方に
おいて来ル廿一日晴雨共仕候間
何卒御賑々敷御光来之程偏
奉希上候以上
四月      荻江千蔵

 荻江千蔵の名弘会々場の万屋八郎兵衛というのは、俗に万八と呼ばれた有名な料理屋兼貸座敷で、書画会やお浚いなどによく利用された。

 特に大浚いとか、大規模な書画会になると、柳橋の万八か、向両国(むこうりょうごく)といわれた本所側にある中村屋平吉の中村楼に決まっていたという。

 式亭三馬は文化八年(1811)三月に中村楼で、滝沢馬琴は古希の天保七年(1836)八月に万八で、夫々盛大な書画会を催している。

 荻江千蔵は願い書の中では万八について、浅艸下平右衛門町廿三番借地料理渡世と書いているが、口上書では両国柳橋万屋八郎兵衛としている。

 浅草下平右衛門町としたのは、今の浅草橋の所に浅草御門があったからで、願い書では下平右衛門町の衛という字が脱字している。

 荻江千蔵は荻江門弟中に口上書を八拾五枚配布したいと願い書に書いているが、その全部が全部同門の門弟宛に配った訳ではなく、当然中には贔屓の客や荻江とは無関係な普段お世話になっている人なども含まれていたと思われる。

 曾って山彦秀翁が荻江について語った話の中に、

「(花柳園)山三郎が音頭で、社中といふのは男女二十名くらいありました」

 とあったが、その時からすると、八十五という数字を多少割引いても、荻江連中の数は二、三倍になっているとみていいだろう。

 都公文書館の資料の中に、いくの名が載っている文書を見つけた。

 いくは四代目荻江露友の妻女となった女性である。

 それについては、次回に

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